見ること、聞き取ること、感じること、そしてこれからも抗いつづけるために / 岩崎 俊郎
コンフェデレーションズカップで日本が勝利した。サッカーはドイツで勝利した。今日はアイルランド対日本のラグビーに試合を見て来た。ラグビーの方は負けた。先週の同カードよりはトライも取れたし、お客さんもそこそこ入ったので、良かったのかもしれない。湿度は高いが、晴天のなか、アイルランド代表を生で見るのは興奮するものだった。
サッカーは買って、ラグビーは負けた。接点での力の差はヨーロッパのチームとのいつもの試合と変わらず。観客はといえば、「判官びいき」そのもので、おかしなタイミングで拍手とためいきを繰り返す。僕の周りには学生時代ラグビーをプレイしたいたであろう大人たちと、早明戦や早慶戦が大好きで、ルールは一通り理解している「ラグビー好き」のおじさんたちばかり。さすがにアイルランドを応援するアイルランドの人たちはビールを飲みまくり、朗らかな応援をしてはいたが、ラグビー日本代表に関わる環境、状況は今日もいつもどおり、奇妙なシニシズムを反復し、いつもどおり慣れきった諦念をなぞるだけだった。
ラグビーの国際試合を見に行くといつも感じることは同じで、そこには少なくともコトバのレベルでの新しい変化や、新しい風、雰囲気は感じられず、普段、日常生活にいやおうなく蔓延しているシニシズムを確認することになる。
石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いたのは何年前になるのだろう。「時代閉塞の現状」。歴史はパラレルに繰り返され、今まさに、ネットワーク社会やら、真の国際社会が叫ばれているこの現在は、「永遠の時代閉塞」といわんばかりに、個人の生活はずたずたに分断され続けている。日々のコミュニケーションで交換されることコトバと云えば、明日のことや、来週のこと、せいぜい来年のこと。そこでは希望というよりは、経済活動における自らのポジションの確保、保身を前提とした極めて射程の短い「未来」へ向けた予想ばかり。その貨幣の交換を目指し、貨幣の獲得という目的を担保にした未来へのにわかな「安心感」をとりあえずの生きている明かし、徴としてどこからどうみても「出来の悪いフィクション」を作り上げ、最悪のシナリオを避けるべく、その出来の悪い脚本の世界にどっぷり浸かってみせるその様は、自らの醜態も含めて、ほとほといやけのさすもの。
「出来の悪いフィクション」を作っているのは個々人であるにも関わらず、そのフィクションを唯一の共通項として、コミュニケーションや経済活動を成り立たせる仕組みができてしまっているから、あたかも、今日も明日も、明後日もその嘘の世界が始めから用意されているような錯覚を覚えているのかもしれない。
「アメリカ映画」がそのような驚異的な説得力と感染力で身の回りの世界を浸食し続ける「出来の悪いフィクション」に対して、ひとまずの留保を差し出してくれるのは間違いない。まさにこの世界の夢を清く正しく語りかけてくれたであろう時代の「アメリカ映画」から、世界のたがが完全に外れ、「政治」や「経済」が猛スピードで言語ゲームに収斂していってしまう現在の「アメリカ映画」まで。須く「アメリカ映画」はなにかとぼくたちの周りを覆い尽くそうとする「出来の悪いフィクション」に対して、「良く出来たフィクション」「完成されたフィクション」を提出してくれる唯一のメディア。
木村敏は「偶然性の精神病理」のなかで、この世界に「偶然」と「必然」があるとしたら、「必然」は「偶然」よりも後に考えられたもので、とにかくこの世には「偶然」しか存在しない。「偶然」の対偶として「必然」が設定されたのも、生命が生きるためには、特に人間が生きるためには、物質としての身体がそこに「アル」だけでは足りず、身体以外として辛うじてその存在を想定しうる「こころ」と身体をセットにして「イル」という状態が呼び出されなければならなかった、と書いている。
「アメリカ映画」を生み出し続ける「アメリカ」はこれまでも、そしてこれからも人間が「イル」ことを熱烈に欲しながらも、「アル」と「イル」のはざまでもがき続ける場所としてある。誰もがそこで生きることを望みながらも、今まで誰も生きたことのない土地としてある。「アメリカ映画」は「アル」ことから「イル」ことへの移り変わりの過程において、一瞬の間だけ垣間みることができる「アル」でも「イル」でもない人間の有り様として「良く出来たフィクション」を示してくれる。
「ミリオンダラー・ベイビー」で最高のレモンパイを食べることができるあのバーで窓越しにその存在を微かに確認できたイーストウッドという存在や、「ライフ・アクアティック」でジャガー・シャークをついに見つけることができた時の潜水艦に乗っていたビル・マーレイやケイト・ブランシェット、彼らの存在は、「良く出来たフィクション」そのものとして、具体的には何の希望も示していないにも関わらず、僕らの周りに蔓延するシニシズムを支える「出来の悪いフィクション」に対抗するあり得べきひとつの希望として、目の前に投げ出している。
シニシズムに抗うために、「アメリカ映画」を見続け、それへの抵抗として「良く出来たフィクション」を感じ取り、書き留めるのではない。ただ、シニシズムをあくまでも「出来の悪いフィクション」として改めて対象化し、その根拠のあさましさ、いかがわしさを何度でも確認するために、「アメリカ映画」を見ることを止めず、そこから世界を感じ直す。
最悪の月曜日を迎える前に、ひとまずは、このサイトへの復帰として、稚拙かつ、幼稚な宣言を書き付けてみる。
ミスティックリバー / 岩崎 俊郎
例えば、死んでしまった親の世代から自分が、街が、見られているという感覚。そしてまた、これから生まれてくるであろう、子供の世代から自分が見られている、という感覚。「真夜中のサバナ」で、死んでしまっている犬の首輪だけを引き、散歩をさせる男が登場する。かつて仕えた主人の言い付けを忠実に守っているといってしまえばいえるのだが、あのシーンでは、死者が生きている者を未だに見守っているということではなく、ただ、過去から現在そして未来に向かって、地続きに繋がってしまうような街としてサバナが現れていたように思う。この映画の舞台、ボストンの街では、日々出来事が生起している(いく)が、どうやら事件、出来事が生起している場所が、いまそこに生きている者たち自身の立つ場所ではなく、死んでしまった者たち、そして、未だ生まれてきていない者たちの視線が交わるところとして描かれている。その視線とは、生きるものとして当然あるべき倫理を促す抑圧ではない。その視線の交わる場所に立って生きている者には、ただ、してしまったこと(過去)とするであろうこと(未来)の二つには差異がない。また、反省、自省してみたりすることもなく、想像、考慮してみることもない。ただ単純に過去と未来がこの世(現在)を挟み込んでいる場所だ。
映画の最後のシーン。パレードの山車が通りを通過していく。デイブの妻は野球のグローブの形をした山車に乗っている息子を探し出し、必死に呼びかけるが、息子は母の呼びかけには気が付かない。また、ジミーの妻は通りに途方に暮れた表情のデイブの妻を認め、気味の悪い笑いをその顔に浮かべる。ジミーはすっきりとした面持ちで家のポーチからゆっくりと下りて、妻に近付き、サングラスをかけ、通りの向かい側にいるショーンの方を見遣る。ショーンは、再開を果たした妻とパレードを見ている。
パレードに出かける前に、寝室で立ち尽くしていたジミーに、ジミーの妻が近付いて行く。ジミーは前夜デイブを殺してしまったことを告白するが、そのことを妻は分かっていたという。ジミーは、今は亡き前妻と娘、そして妻と二人の娘という4人を4つのこころで愛する王であると告げる。王であるジミーは何をやっても許されるのであると、ショーンの背後から妻が囁く。レイとデイブという2人の男を殺したジミーはその罪を問われずに、生きて行く。デイブを殺したのはジミーであることを知っているショーンもその罪を咎めることをしない。「何をやっても許される」存在であるジミーは、この映画の中で、始めから自らの親の世代を含む人称として存在している。
通りの乾いていないセメントに3人で署名をした時、ジミーは一番始めに彼の名を刻み付け、最後に小枝を手にしたデイブは、突如、車から現れた2人の男に連れ去られてしまったために、名を完全に綴ることができなかった。セメントに最初に名を刻んだジミーはその後、2人の男を殺すことになるが、死者の人称を含む存在として行き続ける。2番目に名を綴ったショーンは、現在に生きる人称として、警察という職業を通し現世の犯罪、してはならないことに接して行くことになる。そして、最後までその名を綴れなかったデイブはあらかじめ、この現在生きる人称をすら奪われた存在として、未だ生まれてくることのない世代を現すかのように、その後の人生を歩むことになる。
この映画には何も語ることのない人間が2人登場する。1人はジミーの娘を殺すことになる少年。もう一人はショーンの妻。そして、この映画は少年がジミーの殺害によって事件が起こり、それまで無言でショーンの携帯電話の向こう側にいた彼の妻が、再び言葉を発する時に、事件は解決し、映画も終わりを告げることになる。
この世の人称だけを負っているショーンは警察官として、その事件に関わり、少年を逮捕し、妻を引き戻す。警察官が殺人事件を解決し、愛する妻を呼び戻す。現在の時制だけであればそれだけで、この映画を見ることができる。しかし、3人の男のうちのあと二人の男の存在によって、イーストウッドという一人の人間が語ることのできる最も大きな語りとして映画は構成されている。
まず、先行する世代をも含む人称を負わされているジミーによって、事件が起きる前と起きた後の外側の視点が導入されている。ジミーにとってこの世界にどんなことが起きようとも、すべて許され、罪を川に流すことができる。そのため、ジミーは始めから、事件の外側にいる。この映画の外側にいるといってもよいかもしれない。
また、未だ生まれてこない者たちを含む人称を負わされているデイブにとって、事件はこれから起きることとして、まだ起こっていないこととして認識されることとなる。少年時代に彼が二人の男に車で連れ去られる際に、後部座席から車の外にいるジミーとショーンを振り返るシーンがあるが、まさにその視点によってこの世界を見つめ続けるものになる。デイブは誘拐されてしまった時点で、この世界からいなくなり、森の中を逃げまどう少年として生きて行くことになる。
三人の男それぞれの視点、人称をひとまとまりにした形で、この映画が映し出している世界は、いわゆる「歴史」ではなく、死者と生きる者たちと未だ生まれていない者たちが、かろうじて同じ場所にあることができる時間のようなものだ。
デイブが殺された事も、20年前にレイが殺された事も、何もなかったかのようにパレードの山車は通りを進んでゆく。3人の男たちが少年の頃、ホッケーをして遊んだ通りの下水溝には無数のパックが今もそこにあるのだろう。通りは、この映画の100分強という時間の中で、この世界の全ての責任を負わされていると同時に、世界の全てに対してその責任を果たす事は不可能であるという認識そのものとして、捉えられる。パレードのシーンで映し出される通りも、3人がそれぞれの境遇のもと、ジミーは残された2人の娘の良き、強き父として、ショーンは再開を果たした妻の良き夫として、そして、デイブはといえば妻と一人息子を残して川に沈められた死者として、この通りを各々の視線で見つめる時、100分強という時間が、一人の人間が生きている間に引受ける事のできる全てとして、この映画を見る人間に突き付けられる事になる。ミスティックリバーとは、死者をも含む先行する世代に対しても、未だ生まれてきていない後続の世代に対しても、何も残してゆく事ができないが、全てを引き受けて生きて行くのだという覚悟と無責任が混濁とした淀みとなって流れていくこの通りのことなのかもしれない。
ディーゼル車の排ガスと / 岩崎俊郎
オイルショックと云われていることがどういった事態だったのかは良く知らないけれど、今回のイラクでの人質の方々にまつわる日本国内の騒ぎ方には、本当にうんざりする。
家のすぐそばに青梅街道があり、室内にも排気ガスのためと思われる生暖かい、「固形物」のような空気が常時流れ込んできていて、普段自分が自分が吸っている空気がたばこの煙よりも体に悪影響を及ぼしている気がする。青梅街道の大気汚染の主な原因はディーゼル車の排気ガスで、ディーゼルエンジンを動かすのは軽油。その軽油の原料となる原油はきっと中東地域から輸入されたもの。イラクの石油かもしれない。
オイルショック以降、日本の実質的な経済成長が止まったというのはよく聞く話だけれども、「もの」を実際に作る人たちの人数より、「もの」を右から左へ動かすことによって経済活動をなりたたせる人たちの人数が上回った時期がちょうどオイルショックの頃なのかもしれない。もちろん、僕自身も「もの」を右から左に動かすことの一旦を担うことによって日々のご飯を食べることができる人間の一人だ。「もの」を生み出すのではなく、「もの」を動かすだけで、ご飯が食べられるという仕組みができてしまったということは、もはや「何もすることがなくなった」ということを意味する。「何もすることがなくなった」から、とりあえず、狭い国土にたいして、複雑きわまりない仕組みを作り上げ、下手なフィクションを組み立てることによって、「バブル経済」と呼ばれる嘘をいきることになり、そもそも始めから嘘なので、数年もすれば破綻し、その後どうするのかと思えば、「ITバブル」という暇つぶしにはもってこいの下手な嘘の上を生きることになる。もちろん、嘘は嘘だから、その「バブル」もすぐに終わりを迎えつつある。そんな出来の悪いフィクションを日本で生かされている間に、「もの」を右から左に動かすことを支えていたのが、中東諸国の石油。石油に限らず、ありとあらゆる「もの」を国外の「誰か」から与えてもらわないと、「もの」を右から左でご飯は食べられない。
で、今回のあの騒ぎ。オイルショックについて、父や母から何となく聞かされたけれど、日本国内の動揺のしかた、騒ぎ方を見ていると、オイルショックの時もこんな感じなのかなあと思ってしまう。つまり、自分達が何もすることがないという現実を忘れ続けれるため、自らは出来の悪い嘘を生きていることを認めることができないために、そのフィクションとしての目の前の現実、この世界を支えている「もの」に関わる何か(中東?、石油?)を感じ取るや否や、過剰反応を起こしてしまうということなのかもしれない。
そもそもフィクションの中に生かされている人間にとって、しかもそのフィクションを支えるために、世界中の人々と無限の間接的な連関を必要とする場合、「自己責任」なんて意味をなさない。この嘘を生きるということは、僕が「もの」を右から左でご飯を食べるだけで、世界の各地で、犠牲になり、人が死んでしまう事態を作り出しているのだから。「自己責任」をとれる人なんて、嘘の世界の住人にはいない。
だからこそ、ミスティック・リバーでイーストウッドが提示した、この出来の悪い嘘の世界に対抗する、緻密に構築されたフィクション(映画)は、貴重なはずだ。あの映画では、「自己責任」などもはや誰もとることができない、だからこそ、「自己責任」をとれないというまさにその事実、現実に対して「責任」というよりは、「覚悟」、そして、出来の悪い嘘自体に対する闘争の態度があったように思う。
今日も、僕は、中東産の石油から作られたディーゼルで走る、大型トラックの吐き出す、排ガスをすって、中東の地中にあったものを、この極東の島国で、体の中に取り入れて、「もの」を右から左に動かして、ご飯を食べる。
TEARS OF THE SUN / 岩崎 俊郎
映画の終わりに、エドモンド・バークの言葉が引用されていたが、「善い人たちが、正義のためになすべき事を怠れば、悪い人たちが勝利する」といったような内容であった。
アメリカのネオコンの人たちについてはよく分からないけれども、バークのこの言葉は新保守主義者と呼ばれる人たちが引用しそうな言葉だ。悪い事をしている悪い人たち(イスラム教系反乱軍)と善い事をしている善い人たち(キリスト教系正規軍)。そして、善い人たちを支援する善い人たち(アメリカ)。
イスラム教系反乱軍が、キリスト教系の政府組織の一家を惨殺されたという知らせを受け、特殊部隊に所属するブルース・ウィリスは、内戦下のナイジェリアで医療活動を行っている医師モニカ・ベルッチを救出するよう指令を受ける。
ブルース・ウィリスを中心とする救出部隊は、女性医師だけを救出せよ、という命令であったにもかかわらず、医師が活動をしていた難民キャンプの難民たちも救う事とになる。カメルーン国境まで、救出部隊、難民の犠牲を強いるものの、女医の救出には成功する。
どうやら、善い事、善い人たちには、階層構造があり、その構造を支えているのが、悪い事、悪い人たちであるらしい。最上位に存在する善い人たちは、もちろんアメリカで、そのアメリカの善い事を実行に移すアメリカ軍があり、さらに、前線で戦闘行為を行う救出部隊がいる。もちろん、国連に所属する医師も善い人で、難民キャンプで働く人も善い人だが、彼らは救出部隊の下部に属する。
より上部にある善い人たちがより下部にある善い人たちを守り、助ける。これが、ネオコンらしい。悪い人たちは「イスラム」や「反乱軍」と適当に名前をつけて、最下層の善い人たち(難民)を攻撃してくれさえすれば、最上部にいる善い人たち(アメリカ)がその下の善い人たち(アメリカ軍)を使って、悪い人たちを駆逐する事ができる。
善い人、悪い人とばかり書いたけれども、現在のアメリカの新保守主義の人たちはこんな馬鹿みたいな事を考えていそうだ。この映画ではシネスコで、ブルース・ウィリスやモニカ・ベルッチの顔をやたらと大きく映し出しすことによって、アメリカと難民の間の善い人たちに善い事全てを代表させていたように思う。アメリカでも難民でもなく、アメリカ軍や、国連が行う善い事だけを映し出していた。
ネオコンの人たちにとっては、世界には善い事と悪い事しかなく、世界を善い事だけに、善い人たちだけにするために、悪い人たちを適当に見つけだしては、悪い人たちを攻撃対象とし、善い人たちを助ける。悪い人たちが存在しなければ、善い人たちを助けられないので、悪い人たちを生かさず殺さず、存在させておく。そこには善悪の彼岸は必要ではなく、善悪の此岸だけがあればいい。そして、善悪の此岸とは、生き延びる「アメリカ軍兵士」であり、生き延びる「難民」であり、生き延びる「イスラム教系反乱軍」のことだ。善悪の彼岸に行ってしまう、それぞれの犠牲者は必要ない。
奇しくも今日、衆議院議員総選挙が行われた。自民党が苦戦、民主党が善戦らしい。政権交代もあり得るらしい。自民党も民主党も「アメリカ軍」や「国連」と同じで、「アメリカ」の下部に存在する「善い人たち」であることに変わりはなく、どこまでいっても「犠牲者」は必要ない、語られない。自民党の次に議席の多い、民主党をクローズアップすることによって、マスメディアは「ティアーズ・オブ・ザ・サン」のシネスコの画面で行ったように、「犠牲者」を決定的に映し出さない事を実践している。
雨降りの総選挙の日、そんなひは無記名投票でもして、「アメリカ」も「アメリカ軍」も「難民」も「イスラム教系反乱軍」も、何ものも「代表」せず、また、「ネオコン」映画を見てしまったら、バークではなく、ニーチェを読むのがどうやら「善い」のかもしれない。
