武藤金義をご存じ?「大空の宮本武蔵」とは彼の事です | ウッドデッキDIY☆MCヨッチャンのBlogⅡ

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MCヨッチャンです。

海軍航空隊パイロットシリーズが

続いていますが。

日中戦争から大東亜戦争までの空の戦いを

語る時、

武藤さん抜きでは成り立たない。

お顔を拝見して、

戦う男の顔をされてるなと思います。

1916年8月、大正5年ですね。

彼は我が東海地方は弥冨群の大治村で、

農家の3男として生誕しました。

今の大治町ですね。

初陣は1937年10月、志那事変と言う事です。

初撃墜はその2か月後、

南京上空にて中華民国軍機のソ連製戦闘機

I-16を撃墜。

その搭乗員は四川省出身のエースパイロット

楽 以琴(がく いきん、ユエ・イーチン)氏。

中国きってのパイロットですが

彼には日本のパイロットが多数撃墜されて

いましたので武藤さんが仇を討ったという

事ですね。

そのI-16戦闘機はソ連製なんですね。

日中戦争における中国軍機は殆どが

ソ連製でした。

固定脚のどう見ても弱そうな戦闘機ですが

それでも日本軍機にとっては、

特に爆撃機や攻撃機にとっては

脅威でした。

とは言っても三菱が開発した低翼単葉の

しかも引き込み式脚の高性能戦闘機

零式艦上戦闘機の前では為す術無し

だったと思います。

性能が違いすぎますよね。

武藤さん、

その後は海軍第三航空隊、

第二五二海軍航空隊所属となり

エースパイロットとなって行きました。

1945年からは343空に配属となり

菅野さんや他の隊員たちと共に

九州四国地方の本土防空戦にあたりました。

しかし1945年7月、

日本軍機の10倍以上の敵機との交戦で

菅野隊長機に襲い掛かる敵機に攻撃を

仕掛け隊長を守り切ったが

自身は未帰還となったという事です。

28年という短い生涯ではありましたが

今の日本が有るのは正に彼らの命の

賜物だという事を忘れてはいけないですね。

上の写真は1978年11月に

愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底から

引き上げられた武藤さん搭乗と思われる

紫電改です。

この機体から、武藤さんは撃墜された

のではなく何らかの理由で海上に不時着、

そして戦死したと思われます。

菅野さん、武藤さん、

共に撃墜された訳ではなさそうですね。

どう見ても技能派の面立ちですよね。

彼を慕って集った強者パイロットも

多かったと聞きます。

人間味のある優しい、

そして厳し人だったんだろうな。

もし、

ドラゴンボールが全部集まったら

彼に会うと言う願いを叶えたい。

そうしたら

28歳の武藤さんは

還暦の私の仕事ぶりを見て

なんて言うかな。

「おっ?

なかなかやるじゃないか。

ウッドデッキも素敵だね」

と言ってくれるような

そんな気がします。

武藤さん、

有難うね。

そうそう、

武藤さんは

西沢さんの教官をしていたという事でも

有名です。

大空の魔王を教えたのは

大空の宮本武蔵だったんだ。