何のために、何を学ぶのか、は大事です。
学問を学ぶのは、頭がよくなるためではなく、世の中の役に立つようになるためでもない、「自分が何のために生まれ、何のために生きるのか」を知るためにある学問のはずなのに、そこに結論を出せていない今の学問の限界もあると思います。
過去、陽明学はそこに触れています。でも抽象的で一般の人が腑に落ちて明確に理解するには少し不明確だから、未だ人間が生きる意味や価値を曖昧にしてしまっている気もします。
「陽明学 回天の思想
」 守屋洋著 (日本経済新聞社) ↓↓参考
1.「心即理」こそ陽明学の出発点
心は則ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや
「心がすなわち理である。この心をおいてほかに、どんな事物があり、どんな理があるというのか。」
・理というものはすべて心のなかにあるものであり、心がすなわち理なのだ。この心が私欲に蔽われていない状態がすなわち天理なのであって、それ以上一つも外から付け加える必要はないのである。
この天理そのままの心を発揮して父に使えれば、それがすなわち孝であり、君に仕えれば、それがすなわち信であり忠であるのだ。だから、この心から人欲を取り除いて天理を存するように努力しさえすればよいのである。
・心というものは、形こそないが霊妙なはたらきをしている。そこにはあらゆる理がそなわっており、あらゆるものがそこから出ているのである。心の外に理はなく、心の外に事はない。
2.陽明学の核心は「致良知」
心の良知、これを聖と謂う。聖人の学はただこれこの良知を致すのみ。自然にしてこれを致す者は、聖人なり。勉然としてこれを致す者は、賢人なり。自ら蔽(おお)われ自ら昧(くら)くして、肯(あえ)てこれを致さざる者は、愚不肖の者なり
「心にある良知こそ最高のものである。われわれのめざす聖人になるための学問は、ただこの良知を発現すること、これに尽きる。それを無理なくできるのが聖人、努力してできるのが賢人である。私欲に覆われて、あえて良知を発現しようとしないのは愚かな人間である。」
・良知こそ心の本体である。(仁、義、礼、智、信などの徳目)陽明学ではそれらの徳目はもともとみずからの内なる「良知」にあるとした。
・学ばなくても善を行う力が「良能」であり、考えなくても善を理解する力が「良知」である。人はだれでも、そういう立派な素質を天から授かっている。
・穀物がここまで生長したのは、何よりも根があればこそである。学問をするにしても、根さえしっかりしていれば、必ず進歩するものである。
3.「知行合一」は陽明学の神髄
知は行の始め、行は知の成るなり。聖学はただ一個の功夫。知行は分かちて両事となすべからず
「知ることは行うことの始まりであり、行うことは知ることの完成である。われらのめざす儒学においては、修養はただ一つであって、知ることと行うことを別個のものとはみなさない」
・知は行を予定し、行は知を前提として成り立つ。知の実現が行にほかならない。だから、知と行は一体のものとして理解されなければならない。
・道が険しいか平坦であるかは、自分で歩いてみてはじめてわかるのである。自分で歩きもしないでわかる者などいない。
(王陽明は、1518年、儒教における「般若心経」ともいうべき根本経典、『大学』が朱子学の開祖・朱熹により文章が朱子学の主張に合う形で変えられていたことに反対し、古典本来のすがたに戻した『古本大学』(こほんだいがく)を出版。朱子学の解釈を否定し、権威にやみくもにしたがうのではなく、みずから責任をもって行動する心の自由を説いたのです。この年、ちょうどヨーロッパではルターがカトリック教会に立ち向かい宗教改革を行っています。)