安全な国家崩壊への序曲 | 三澤トレーナー日記・「七人のボルサリーノ」

三澤トレーナー日記・「七人のボルサリーノ」

①ミサワ整骨院&治療②トレーナー③社長業やもろもろの活動④プロレス⑤はまじめに健康指南⑥酔いどれて裸祭り⑦世の中や人生について語る。7人のボルサリーノ三澤が登場する、多重人格日記。毎日お楽しみください!

なぜ安全だ、安全だというだけなのがいけないか。

大気や水道、農作物。
厳しくしてあるという摂取制限の基準。
たしかに多少越えたからといって、ただちに健康に害を及ぼすことはないであろう。
しかしたとえ大丈夫だからとしても、それを公の場で容認してしまうとどうなるであろうか。

日常の安全基準の最低ラインが引き上げられてしまう恐ろしさ。

今回基準を越えても大丈夫だという認識が広まってしまったら。
次回どこかで放射線漏れの事故が起きても、
今回よりはましなんじゃない?と思ってしまう。
それは次第に、放射線が多少高くとも当たり前だと思わせてしまう世の中になりかねない。

この考え方は今回の放射線だけでなく、全てのことに伝染しかねない。

今、国家、社会の安全基準が揺らぎかねないでいるのだ。
安全基準の敷居が低くなろうとしているのだ。

かつて、賞味期限の食品を提供したことに、あれだけ敏感に反応した社会。
それが、自分の家でのできごとなら、一日期限が過ぎただけなら大丈夫と食べるであろう。
でもそれを社会ではよしとしない。
それで安全が保たれてきたからだ。

かつてチェルノブイリ事故の時、ヨーロッパ食品の不買いまでした人たちがいる国。
その時はリーダー達は安全を先導しようとせず、大勢も安心を信じようとはしなかった。

それが今回は、国を引っ張るリーダー達が安全を先導しようとしている。
それが今回は、安心を信じようとしている大勢がいる。

日本は、夜道を女性が歩くととの出来る、世界でも有数の安全な国家。

国のリーダーたち
政治家
有識者
それが崩されかねない社会になるかもしれない、ということを理解して発言しなくてはならない。