来年3月の舞台公演に備えて
ゆかりの場所を巡礼してきました
先人たちのご冥福を祈り
公演が終わるまで
出演者、スタッフおよび関係者、お客様の健康
流行り病に冒されずに無事であることを祈願し
成功を誓いました
今回は江戸が舞台なので近場です
ただ、1600年前半の出来事のため
跡はほぼ残っていません
史跡といえるものはこれだけ。かな・・・
末廣神社(すえひろじんじゃ)・中央区日本橋人形町
1596年以前に稲荷祠として鎮座。
この地にあった葭原(吉原)の氏神として信仰された。
吉原。
そう3月公演は吉原遊郭の話になります
人形町は元吉原と言われ、1617年幕府公認の遊廓が建設された
そして明暦の大火(1657)で全焼し機能が消滅
その後浅草寺裏の日本堤に新吉原移された
日本堤が標準の吉原とされる
ですのでその後移された場所に移動です
浅草の新吉原の入り口です
山谷堀(さんやぼり)・台東区東浅草
新吉原の入り口。ここは昔、川だった。
江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため三ノ輪から隅田川への
出入口である今戸まで造られた運河である。
船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。
現在は埋め立てられ山谷堀公園となっている。
二代目高尾太夫の墓跡地
春慶院(しゅんけいいん)・台東区東浅草
山谷堀公演の歩道を道にすすみ
途中でちょっとはずれたところにあります
吉原で最も有名な遊女で
その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前
11代目まで続いたとされますが、その他、他の説が様々
本編でも名前だけ出てきます
いよいよ新吉原の入り口付近
見返り柳・台東区千束
遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ
この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから
「見返り柳」の名があり。
震災・戦災による焼失などによって数代にわたり植え替えられている。
五十間道・台東区千束
不自然にS字カーブしている五十間道。
これは将軍や大名が街道を通る際、
遊郭を見渡せないようにするための配慮である。
角を曲がれば吉原遊郭の入口
大門(おおもん)が見えてくる。
吉原大門(おおもん)・台東区千束
吉原の入り口。必ずここを通らないと出入りができない
新吉原には徒歩でも駕籠でも猪牙舟でも
日本堤を経なければ行けなかった
白黒画像は明治時代のもの
吉原神社・台東区千束
吉原にまつられていた稲荷神社を合祀して
明治8年に造られた神社。
かつて廓の守護神として五つの稲荷社が存在した
大門の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」
さらに廓内の四隅は
「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」が
お祀りされていた。
これら五つの稲荷社が合祀され総称して吉原神社と名付けられた
大正の関東大震災後に現在の場所に移され
昭和10年には吉原弁財天を合祀している。
吉原弁天池跡・台東区千束
1875年に起きた関東大震災の際
逃げ遅れた遊女約500人がここにあった弁天池に飛び込み
溺死した。
その遊女たちの供養のためつくられた。
その後池は埋め立てられたため残っていない
浄閑寺(じょうかんじ)・荒川区南千住
遊女の投げ込み寺 (安政の大地震1855年から)
「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」
「廓内での密通」「阿片喫引」など
吉原の掟を破った者に限られている。
新吉原総霊塔には遊女たちの骨壷が納められている
以上
様々な思いを旨に、公演へ全開でいくぜ!!
デハ!!