川崎の初優勝で20年前のことを思い出したその2 | 大次郎 侍心 SAMURAI-HEART

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20年前(1998年)の等々力競技場
フロンターレの試合の客入りは記録上の平均は3,567人だそうだが
私が見に行った試合はいつも3,000人以下だった印象だ
当時の等々力競技場のキャパは2万人ぐらい
JFLだしヴェルディがいるしこんなもんだろうという印象
この先サポーターが増えなければクラブは育たない

川崎市はプロ野球では大洋とロッテが定着できなかった街
ヴェルディにしても最初から全国区でなおかつ
初期はホームグラウンドの兼ね合いで
東京をホームタウンにすることができなかったらしいから
川崎市にほとんど定着していないのが現実だった
そして富士通という会社についても、川崎市には東芝やNECなど
ライバル会社がひしめき働く人が多い現状
そして東京都と横浜という大都市に挟まれ
すでにJクラブが首都圏に溢れている
市民の入れ替わりも激しく郷土愛というものが芽生えにくい土地柄
その土地に新興チームが根付くのか
とてつもない課題があったと思う
私の知り合いも大概、私が横浜に住んでいるものと間違えられる
政令指定都市なのに川崎市は外からもマイナーなイメージ

Jリーグにあがれれば自然とファンが増えるという予想がつくが
いろんな悪条件が絡む中で
自分ではどうしようもないが上手くいくんだろうかと思った

1998年のチームは2位でシーズンを追え
フロンターレはJ1参入決定戦にコマを進める
Jリーグは1999年からJ2を導入し、Jリーグ18チームから
J1を16チームに絞り、J2をJFLから参入資格のある10チームを加えるリーグに変わる
JFLでJ準会員で2位までに入ったチームがJ1参入の椅子をかけて
Jリーグの総合下位4チームを含めて争うという元祖プレーオフが行われた
フロンターレは緒戦福岡と当たり、試合終了間際に同点に追いつかれ
延長戦でVゴール負けを喫した
これをサポの間では「博多の森の悲劇」と呼んでいるが
この試合に勝っていても次に勝てたかはわからない
延長になって勝てなかったのだから単なる実力不足。JFLさえ2位だし
翌年から始まるJ2で文句なしに昇格できるようになればいいんだと思った
少なくとも18チームが16チームに絞られる中に
新規参入が入れる余地があるのかという感覚だった

またこの時、横浜フリューゲルスの合併事件が起こり
チームがなくなることの悲しさが日本のサッカーファンの心に焼きついた
フリューゲルスがなくなったためにJ2への降格は札幌だけとなった

1年終わって、フロンターレがJリーグに上がれなかったことは
それほど残念には思わなかった。まだこれからのチームだから
そしてJリーグに上がったらどうなるか心底見てみたくなった。
翌年は更に応援にいくぞと思い、後援会に入った(と思う)


1999年J2開幕
チーム総数は10 Jリーグの開幕時と同じ数だ
このチーム数なので試合はホーム&アウェーを2回
計36試合というシステムになった
目標はもちろんぶっちぎりの優勝
J1昇格をかけるフロンターレは元日本代表の岩本など補強を
積極的に行ったが序盤は連敗しチームは苦しんだ
そして早々に松本育夫氏に監督交代
主力選手を入れ替えてから軌道に乗った
最終的にはぶっちぎりの優勝で文句なしのJ1昇格を果たした

私は前年以上に試合を観にいき
近場のFC東京戦はアウェーも観にいった
会社の同期もこの頃は私の熱意を汲み取ってくれて
一緒に来てくれる人ができた
またこの年のわが社の新入社員は去年以上に多数来るようになった
ホームの平均観客数は5,396人になり
J1昇格への天王山のFC東京戦は初めて1万人を超した
このときの東京との戦いが後の多摩川クラシコとしてビッグマッチとなる
このときからJを目指すライバルチームとして
絶対に負けられない戦いをしていた
この年は4回戦い勝ち越した!!

J1昇格の喜びに浸る
チーム発足初年度1997年はJFL3位で昇格失敗
1998年はJ1参入戦で敗退
1999年J2優勝で初昇格
確実に階段をあがっているところから
ここから更なるに躍進が約束されたかに思われた
このとき、ゆくゆくは世界クラブ選手権(現・FIFAクラブW杯)で
優勝することを夢見ていた
J1でもいいところまでやってくれるだろうと期待していた
しかし・・・

つづく