と言うわけで、スピンオフ小説の始まりです~
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彼はその日、早く目覚めたためかなり朝早く出勤することができた。この4月から正規採用の司書としてBs大学図書館にやって来た比嘉幹貴は、1番乗りだと思って図書館通用口の鍵を開けようとした時、既に出勤している者が居ることに気づいた。
沖縄出身で、何事にものんびり構えている彼だが、流石に今日は少し残念に感じた。
(ま、仕方ないさ~)
ロッカーと事務所には誰も居なかったので、閲覧室に行くと1人の男が受付カウンターで目を閉じて立っていた。
「川端課長、おはようございます」
比嘉の声に振り向いた川端は、にこりともせず、
「川端で良い。おはよう」
とだけ言うと、手に持っていた雑巾でカウンターを丁寧に拭き始めた。
「あ…川端さん、僕がやりますから」
決しててきぱきとした動作ではないが、彼なりに慌てて雑巾を事務所から持ってくると、閲覧テーブルを拭き始めた。
「川端さんいつもこんな早いんですか~」
後ろ姿の川端が少しうなずいた様に見えた。
(しかし、本当に喋らない人だなぁ~)
面接の際も終始無言で、ただ手元の職務経歴書と比嘉を見比べるだけだった。採用が決まり、事務手続きに大学を訪れ、挨拶した時も川端は一言「よろしく」と言ってさっさと業務に戻ってしまい、比嘉を少し不安にさせた。
その不安を一掃してくれたのが、もう一人の正規職員である原だった。
「俺、歳は比嘉さんより下ですけど、ここのキャリアは長いから何でも聴いて下さいよ!」
そう言って、早速その夜に歓迎会と称して呑みに誘ってくれた。
「いやぁ…土谷さんの後任が早く決まって良かった!」
比嘉の前任者である土谷は、大分の祖母の具合が悪くなったため、実家に帰って世話をしたいとの理由で、年度末で退職したのだった。
「ま、ホントはそれだけの理由じゃないみたいだったけど、突っ込むこともないかな~と思って、それ以上は聞いてないんですけどね」
呑む前もかなり饒舌だったが、酒が入ると更に舌が滑らかになるようだった。
「川端さん、びっくりするくらい喋らないし感情も出さない人だけど、慣れたら分かり易い人だから安心してくださいね。
ちなみに、比嘉さんの事は気に入ったみたいですよ。
気に入らなかったら、まず声を発しないからなぁ…」
俺の時は、初め一ヶ月間喋ってくれなかったからなぁ~と、懐かしむかのように原は語った。
「でもね、川端さんの本に対する知識と愛はすごい!偏屈な人だけどあれだけは俺も尊敬してる。だから大学側もあの人に図書館の事は一任してるんですよ。
土谷さんて、引き継ぎで会ったら分かると思うけど、川端さんに欠けている学生とのコミュニケーション能力が高い人でね、ザ・良い人って感じなんですよ。あの人がいるから何とかうちの図書館も平和だったのになぁ…」
そう言って、追加のビールを注文した。
「川端さん、学生とはまず話すことは無い。カウンターに居ても相手をすることは1年に一度あるか無いかだしね。普通とは違うコミュニケーションを取れる例外が何人かいるけど…
アルバイトとも稀にしか会話しない。そのアルバイトと川端さんの間を取り持っていたのも土谷さん。ホント完璧な人だったのになぁ…残念!
まぁ、川端さんの扱いは実際勤務が始まったら慣れるから徐々に覚えて下さいね!」
そう言うと運ばれてきたビールをぐいっと呑み、比嘉の背中を思いっきり叩いた。
原が少し口は軽いものの親しみ易い人物とわかったのと同時に、川端と上手くやっていけるのだろうかというなんとも言えない不安感が比嘉の中で大きくなっていた。
翌日から勤務が始まった。3日間ほど前任者の土谷から引き継ぎを受け、それが終わる頃には、新学期の始まった学生達が図書館に大勢やってくるので、それまでに大体の業務は把握するように、との事だった。
原の言うとおり、土谷は良い人を絵に描いたような人物だった。のんびり屋の比嘉がたまにやらかすミスを責めることなく指導に当たってくれ、合間にはちょこちょこやってくる学生の相手、喋らない川端と学生の通訳、アルバイト学生の指導、原の雑談相手…
常に穏やかで笑みを絶やさず、まるで…
(悟りを開いた人みたいだなぁ~)
もう辞めるからなのか、一切の感情を笑顔で隠し、逆にそれで誰にも退職について切り出させないようにしている様に比嘉には感じられた。
「土谷さんは、実家に戻られたら次のお仕事って決まってるんですか?」
最終日の昼休み、思い切って尋ねた時も、いつもの笑顔で
「友だちが親の会社を継いだところで、手助けをして欲しいって言われてるんですよ。業種は違っても事務なら問題から。
祖母の面倒も見れるし、思い切って退職させてもらうことになったんですよ」
今日で学食も最後なのが寂しいですけどね、とカレーを食べながら言った。学生の昼休みを避けて昼食を取っているので、周囲は割と閑散としていた。しかし、土谷は笑顔とは裏腹に誰かを探しているような目線をあちこちに送っていた。
「失礼、ちょっと用があるので先に行かせてもらいますね」
立ち上がった土谷は、ちょうど入口から入ってきた男性の元へ駆け寄り、何やら話している。最後に深々と頭を下げると、そのまま土谷は出て行った。
その後ろ姿を見送っていた男性は、いかにも紳士といった様子の、おそらく教授クラスの教員なのだろうが、傍目にもわかるくらいに寂しげな様子だった。
「そっか…森脇先生にまだ挨拶してなかったんだ」
振り向くと原が定食を載せたトレーを持って立っていた。
「あの方は史学科の森脇先生。うちで1番人気のある先生なんですよ。ルックスも良いしお話も面白い。
土谷さん、先生からの信任が厚くて、よく資料探しを頼まれてたんですよ。
あと…これ、比嘉さんも知ってると思うけど」
急に声をひそめ、続けた。
「2年くらい前にあった傷害事件の被害者があの先生。
先生と愛人関係にあった女子学生と、学生課の男性職員が先生を巡って三角関係になって、それで起きた事件だったんですよ~」
その話は当時新聞や雑誌で目にしたことがあった。一週間程はセンセーショナルに報じられたが、今ではすっかり忘れ去られている。
「…その女子学生、土谷さんとも親しくて。多分その子の事好きだったんじゃないかと俺は踏んでるんですよ。
きれいな子でね。よく図書館にも来てた。土谷さん、あんな性格だから先生に遠慮して何も言えなかったんじゃないかなぁ、ってね」
「その子はその後どうしたんですかね~?」
周りを見回した原は、比嘉に近寄ると更に声をひそめ、
「事件以来見なくなったんですよ。卒業はできたらしいけど、どうしてるんだか…」
この事はタブーらしい。既に食べ終えた比嘉は、原に断ると先に食堂を後にした。
そんなやり取りがあったのが昨日の事だった。川端への不安が増大している中のこの状況に、比嘉はひたすら原が早く出勤してくれる事を祈っていた。
「比嘉さん」
突然、川端が掃除の手を止め比嘉の名を呼んだ。驚いた比嘉は、とっさには返事ができなかった。
続く