・昆虫はなぜ海にいないのか(朝野維起著、ちくま新書、2026年7月10日第1刷発行、960円+税金)
・そう言われてみれば確かに不思議だよなあ、と感じる素朴な疑問をそのままテーマにした、科学読み物です。理解が難しいところもあるのですが、新書らしく、専門的になり過ぎず、むしろ著者にとっては専門外の知見やエピソードをふんだんに盛り込むことで、素人にも読みやすく仕上げることに成功していると思います。
海に昆虫が全くいないわけではありません。たとえば蚊柱をたてることで知られるユスリカの仲間には、海での生活に適応したものがそれなりにいます。それでも、100万種を超えるとされるほど地上で大繁栄しているのに比べると、海における昆虫の存在感の低調ぶりは印象的です。わが哺乳類の仲間たちが海でそれなりに繁栄しているだけに、余計に不思議に感じます。
それで浮上してくる本書のタイトルそのままの疑問に、著者を含む3人の研究者が2023年に発表した論文は説得力のある仮説を示した、との評価を得ているようです。で、この学術論文の主旨を素人にも理解できるように解説したのが本書だといえるでしょう。以下、興味深く感じたことを――。
(1)著者たちが新たに提唱したとされる仮説:海では昆虫と同じ節足動物の仲間である甲殻類が繁栄しているが、地上では甲殻類はそう繁栄していていない。この甲殻類と昆虫の対照的ともいえる違いをもたらしている要因として、外骨格(節足動物に共通のデザインですね)の成り立ちの違いが考えられる。昆虫は「マルチ銅オキシデース2」(MCO2)という昆虫独自の酵素を利用していて、それにより酸素を用いて外骨格を硬くしている。一方甲殻類は海中に豊富なカルシウムを利用して外骨格を強固なものにしている。地上(空気中)に比べ海には酸素(溶存酸素)が少なく、カルシウムを利用する能力のない昆虫にとって海で外骨格を硬くするのは難しい~説得力を感じました。
(2)汎甲殻類:昆虫はかつて多足類(ムカデやヤスデ)と近縁と考えられていたが、1995年ごろからは甲殻類と近縁だと考えられるようになった。今では、昆虫と甲殻類をまとめて「汎甲殻類」と呼ぶようになっていて、「昆虫は汎甲殻類を構成するごく一部の分類群に過ぎない」とされている~分類学の近年の発展は本当に面白いですねえ。それにしても、甲殻類は「形態学的には最も多様な動物」とする考えもある、との指摘には目が開かれる思いでした。
(3)現在考えられている昆虫進化の流れ:海にいた甲殻類の仲間(ムカデエビという甲殻類との共通祖先らしい)から分岐した連中が陸上に進出し、やがて昆虫になった、というもの。カルシウムを使わず、MCO2によって酸素を利用して軽い外骨格を作ることができるようになったことが、昆虫の飛行能力発達の要因ともなるなど、地上での繁栄を支えた。しかしそれは、昆虫の海への再進出には不利に働く進化だった~なるほど。
(4)MCO2は昆虫の外骨格を硬くする働きだけでなくメラニン化による着色にも貢献している:メラニン化にはフェノール酸化酵素によるものがあり、これは傷害や感染に対する防御として働く。最近、フェノール酸化酵素は哺乳類のヘモグロビンのように酸素を運搬する機能を果たしていることも分かった~それにしても、メラニン化による着色の意義はなんなんでしょう?
(5)昆虫の研究はいまや現代的な生命科学なしには語れない~本書が紹介している技術革新の成果は興味深いです。例えばRNA干渉法という手法やゲノム編集という技術、あるいは次世代シーケンサーという機器やPCRという技術。解説を読んでも図解を見ても原理はわからないのですが、研究に絶大な貢献をしていることは理解しました。地中の生命に関する「地球内生命」(カレン・ロイド著、みすず書房)という本も読んだ時も感じたのですが、生物学の研究の現場は技術革新によって劇的な変化を遂げているようです。もっとも、博物学的な昔ながらの昆虫学の意義を著者は否定しているわけではありませんで、実際にも、本書の魅力の一端はそうした博物学的な知見の紹介にもあります。「虫の惑星」(ハワード・エヴァンズ著、ハヤカワ文庫)や「虫・全史」(スティーブ・ニコルズ著、日経ナショジオ)ともとより比べようもありませんが、楽しい読み物になっていると思います。
(6)「昆虫記」を書いたファーブルは教師として数学や物理学を教えていた:著者は「理系的知識人」と評しているのですが、そういう概念があるんですねえ
(7)クシクラゲ:この生き物はかつてクラゲの仲間に近いとみられていたが、ゲノム解析に基づく近年の研究で「ほとんどすべての多細胞生物とは独立の、まったく異なった進化の歴史をたどった生き物であるとする説が有力」になっている。そして神経という仕組みが複数の系統に分かれる可能性が浮上している~著者の言葉を借りるなら、「分類学の革命」に今更ながら感動しました。
(8)「六脚類の断絶(空白)」:昆虫進化史の中の化石空白期間のこと~知りませんでした。
(9)硬骨魚類:魚類の仲間のうち現在もっとも繁栄している硬骨魚類(より正確には新鰭類とのこと)は、かつて淡水あるいは汽水域への適応を余儀なくされた仲間の子孫だと考えられる。カルシウムが少ない淡水・汽水域に適応する中で軽くて丈夫な骨格を作る能力を手にし、優勢になったらしい。また、気候変動によると考えられる溶存酸素の減少に対応するため肺を発達させ、それが後に浮袋になった~これは初耳でした!ビックリ!!!
(10)爬虫類、哺乳類、鳥類:これらの動物たちはもともと魚類の仲間から分岐したとされ(ルル・ミラー著「魚が存在しない理由」は面白かった!)る。そしてクジラの仲間など一部は水中での生活に戻っているが、改めて鰓を発達させることはなく、空気中の酸素を肺で取り込む方式は地上にいる仲間と変わらない。これは空気中の酸素濃度が水中の溶存酸素濃度よりずっと高く、エネルギーを生み出すうえで効率的だからだと考えられる~説得力のある指摘だと感じました。
いささか不満を覚えたのは、学術的な言葉についての解説が物足りないことです。たとえばマルチ銅オキシデースという言葉を当然のように用いているのですが、ネットで調べると「マルチ銅オキシダーゼ」と呼ぶ方が一般的な印象です。酵素を表す接尾詞である「~ace」をどう発音するか(英語風かドイツ語風か)の違いでしかないようなのですが、「タカヂアスターゼ」という言葉に親しんだ日本人になんの説明もなく英語風の呼び方を提示するのは不親切ではないかと思うのです。
まあネット時代なのでほとんどの術語は簡単に調べられるといえばそうなのですが、新書のような書籍には丁寧な説明を期待してしまうのです。