・幼年期の終わり(アーサー・C・クラーク著、池田真紀子訳、光文社古典新訳文庫、2007年11月20日初版第1刷、743円+税金)(原著初版が世に出たのは1953年で、本書は1989年に出た改訂版の邦訳)
・いまさらですが、SFの古典中のこてんというべき長編小説です。どういうわけか「SFの古典を読みたいっ」というマイ・ブームに嵌ってしまい、J・P・ホーガンの巨人シリーズ、小松左京の「日本沈没」を久しぶりに読み返し、それぞれに堪能したのですが、さらに古い本書に手を伸ばしてしまいました。読んだのはもう何度目かわからないのですが、やっぱり面白いです。読み出すと止まらない魅力的な物語に翻弄されつつ、SFの魅力としてよく語られる「センス・オブ・ワンダー」を存分に味わえる、稀有な傑作だと思います。
あえて分類すればファースト・コンタクトもの、つまり地球外知性体との初接触もの、といえるでしょう。ただ、ファースト・コンタクトものでは典型といえる戦い(「宇宙戦争」や「エイリアン」)になるのでなく、かといって心温まる友情(「E.T.」)が育まれるわけでもありません。圧倒的な科学技術(著者の格言=クラークの第三法則の表現を借りるなら、魔法と区別できないような科学技術)を駆使してはるか宇宙の彼方からやってきて、人類の前に突如として姿を現した高度な知性体(オーヴァーロードという変な呼ばれ方をします)による人類の支配、というか管理が、展開されるのです。
結果として地上では戦争がなくなります。飢餓や貧困も撲滅されます。動物虐待禁止令が出され、最低限必要な食事の目的以外で動物に虐待を加えようとしたりそれを楽しもうとしたりした人々はあたかも自分が虐待されたようなショックを味わう、という出来事が起きます。つまり人類を卑小な存在として相対化し、人類のダークサイドを取り除くべき邪悪として描き、人類にとってのユートピアは人類以外の知性体によって達成される、としているわけです。
久しぶりに読んで強い印象を受けたのは、オーヴァーロードの次の言葉です。「政治問題はどれも力を適切に使うことで解決できる」。これを聞いた人類の代表は「力は正義なり」という言葉に通じる「シニカル」な考え方だと指摘するのですが、対する答えは「キーワードは“適切に”だよ」であり「君たち人類が本物の力を所有したことは一度もない」「それを使うために必要な知識を備えていたこともない」でした。
このとてつもないスケールと、わかりやすい倫理観こそ、本書の最大の魅力でしょう。著者は宗教が衰退した後の倫理、いわば科学技術万能の時代の道徳哲学を探究しているようにさえみえます。既存の宗教のなかでは原始的な仏教が最後まで頑張る、という展開には唸りました。もっとも、ユートピアと呼ぶに相応しい世界が到来したことは妙な副作用も人類にもたらす、としているので、著者の想像力は一筋縄ではいかないのですが。
オーヴァーロードによる人類の管理を、19世紀の英国によるインド支配に準えている部分などを読むと、20世紀の前半に人格を形成した欧州のインテリらしい傲慢さが滲んでいるようで、いささか鼻白らんでしまうのも確かです。ただ、人は所詮みずからの経験を基準にして思考を展開せざるを得ないわけで、下手な例えとして受け止めればいいのかもしれません。
本書の物語が読む者を惹きつけてやまない原動力のひとつは謎です。つまり本書にはミステリ的な要素があるのです。というより、ミステリの要素たっぷり、というべきでしょう。第1部を牽引する謎、第2部から最後まで牽引する謎、それぞれに味わい深く魅力的です。終盤には鮮やかなどんでん返しも用意してあって、謎が解けた時の爽快感は格別です。
この謎と絡むテーマの一つが、人類の進化です。本書が描く人類の進化は恐ろしいまでに壮麗で、初めて読んだ時は著者の想像力に圧倒された記憶があります。改めて読み返しても大いに魅了されました。オラフ・ステープルドンの荘厳な二大長編「最後にして最初の人類」と「スターメーカー」を彷彿させる幻視(ビジョン)だと感じた次第です。
さらにいえば、わが半村良が送り出した伝奇SFの大傑作「妖星伝」の世界観は、少なからず本書の世界観の影響を受けていると考えます。
今回読み返してちょっと意外に感じたのは、ハードSFの要素がわりあい薄く、オカルトめいた要素が多いことです。「まえがき」にあるように本書を書いたころ著者は超常現象を信じていたそうです。それどころか、20年ほど後の1970年代になって、ユリ・ゲラーに心酔していたというのです。いや~、知りませんでした(以前に読んだ版にこのまえがきはなかったのです)。著者は未来予測など科学技術に関する解説でも知られていただけに、情けないような気分を覚えました。いやはやなんとも……。
かつてバーナード・ショーがソ連を称え、井上靖が中国の文革を評価したように、後世に名を残すようなインテリの観察眼が意外に鈍かった、という例は珍しくないようです。クラークのオカルトへの傾斜も、そうしたインテリたちの系譜に連なる一例なのかも、などと考えてしまいました。
振り返ると、初めて本書を読んだのは創元文庫版で、タイトルは「地球幼年期の終わり」でした。面白くて面白くて、一気読みだった記憶があります(それどころか一夜読みだったような)。残念なことにその後引っ越しを繰り返すうちに創元版は紛失してしまい、やがてハヤカワ文庫版「幼年期の終わり」をあらためて取り寄せ、読みました。そして今回目を通したのは、光文社古典新訳文庫版です。とても読みやすい「新訳」になっていると考えます。先ごろ同じ古典新訳文庫の「ゴリオ爺さん」を読んだ時も感じたのですが、主な登場人物が一目でわかる栞がまた嬉しいです。
訳者解説にもあるように、古典新訳文庫版は創元版やハヤカワ版とは異なる1989年版を底本にしているそうで、冷戦を脱しつつあった国際情勢を反映した内容になっているそうです。別に違和感を感じることはありませんでしたが、今となっては冷戦を前提にした方が却って現代風かも、と考えてしまいました。
笑ったのは世界人口が25億人となっていること。原著初版が出た1950年代前半にはこの数字が常識的な線だったのでしょう。それがいまや80億人を超えているのは、周知の通り。この70年あまりで人類は随分と遠くまで来たなあ、と今更ながら感じ入った次第です。対して人類の進化はそれほどでもない、というか近年は退化しているようにも感じますが……。このままいけばAIがオーヴァーロードになるのかも、などと妄想してしまいました。