・私の人生にふりかかった様々な出来事 上巻(キン・ニュン著、千葉大学研究グループ訳、三恵社、2020年3月26日初版発行、2750円+税)

・1983年から長らくビルマ(ミャンマー)軍情報部門のトップをつとめ、1988年に発足した軍事政権で長くナンバー3の地位にあり、首相まで上り詰めながら、失脚して罪に問われた元軍人・政治家の、回顧録いわば第一弾です。この手の書籍にはありがちなのでしょうが、自分の言動を正当化し、自分の属する体制を疑わず、自分と体制の仕事を盛んにアピールしながら、第三者が知りたいと思う肝腎要の情報は明らかにしない、という、正直なところ大いなる不満を禁じ得ない中身でした。しかも校正がいい加減で注釈は不十分です。要するに書籍として相当に出来が悪いのですが、それでもああいう体制の中枢にいた人物の回顧録なので、貴重な情報がないわけではありません。完成した本ではなく、いわば一次史料として読めば、とても興味深い内容だと考えます。翻訳なので、一次史料というより1・5次史料とみなすべきなのでしょうか。

 興味深い情報としてはたとえば以下のようなことが挙げられます。

(1)1988年9月18日の軍のクーデターは、(表向きは引退していた)ネ・ウィン元大統領に促されて、というより事実上ネ・ウィンの指示で実行された。その際、軍の意向を踏まえてネ・ウィンに連絡したのは本書の著者だった。電話で「私たちはお父さん(=ネ・ウィン)に会うためにそちらに行きたいと思います」と伝えた:あえて注釈をつけますと、民主化運動の高まりを受けて表向き独裁者の座を降りたネ・ウィンが、実はその後も最高指導者だったことを証言しているわけです。そして著者はネ・ウィンを「お父さん」と呼んでいたことがわかります。これは当時のビルマ軍内での慣習だったのかもしれません。ただ、ネ・ウィンが著者を随分と可愛がったこと、ネ・ウィンの娘であるサンダー・ウィンと著者は特別な関係にあるとの噂があったことを踏まえると、意味深ではあります。

(2)1988年に民主化運動が盛り上がった頃、米軍の艦艇4隻がビルマ領海に侵入していた:この時の米国の思惑はわかりませんが、ビルマの軍の首脳部は相当に警戒したようです。

(3)軍事政権のナンバー3(国家法秩序回復評議会=SLORCのちの国家平和発展評議会=SPDCの第1書記)として著者が管轄した仕事には、以下の8つの省に関する事項は含まれなかった。それは①国防省②貿易経済省③国家計画経済省④科学技術省⑤財務歳入省⑥エネルギー省⑦工業省⑧林業省――に関する事項だった。2003年に首相に就いてもこの管轄は変わらなかった:経済運営に関わる権限は著者にはほとんどなく、「経済は(ナンバー2の)マウン・エイ副議長が担当していた」ということでしょう。

(4)2004年に著者が失脚した際、それを言い渡したのはマウン・エイだった。そのとき著者は「驚愕するということはなかった」。というのも「ずっと以前から私のことを快く思っていないことはわかっていたので、驚くに値しなかった」とのことです:「快く思っていなかった」人物について著者は明言していませんが、マウン・エイを指しているのは明らかです。

(5)ネ・ウィンの時代に東京の品川に購入した大使館用の土地の半分を、軍事クーデターのあと日本の実業家に約3億ドルで売却した:なんという実業家か不明です。場所的には、現ミャンマー大使館の隣にある御殿山ハウスの敷地かなあ、と思うのですが、このマンションを当時いったい誰が開発したのか、手元の資料ではわかりませんでした。バブル真っ盛りだった頃だと思うので、これで手にした外貨によって軍事政権は「命をもちこたえることができた」のかもしれません。

(6)1979年に著者は少佐として国軍司令部に配属になったが、同僚となったタン・シュエ中佐(後の軍事政権ナンバー1)とはこの時から「非常に親しくなった」。

(7)ネ・ウィン時代の1984年に中国の李先念・国家主席がビルマを訪問した際、同行した楊得志・中国人民解放軍総参謀長が国軍副司令官のソー・マウン(おそらく1988年のクーデターを指揮したのちの軍事政権ナンバー1)と会談し、次のように語った。「私たち中国政府が以前、ビルマ共産党を支援していたことは事実だが、現在、人民解放軍のリーダーである鄧小平・中央軍事委員会主席の大局的な考え方により、ビルマ共産党への支援を止めて絶縁した」:ここで楊得志が鄧小平を引き合いに出して政策の大転換を説明しているところが、リアルです。

(8)2004年の自らの失脚について、著者は「(トップの)タン・シュエ上級大将が一人で決めた」ことは「あり得ない」とし、彼を「唆した人物、私を処罰するようでっち上げの工作を行った人物が」いた、と書いています。さらに「それが誰であるかを私は知っている。だが、ここでは言わない」として、「犯人」の名前を明らかにしていないのですが、本書全体を読むと、マウン・エイではないか、と想像したくなります……。

(9)2003年、著者は独断でアウン・サン・スー・チーと軍の一部高官の面会をアレンジした。これは「政府上層部に逆らう行動になった」が「後悔していない」という:これは知りませんでした。前年の2002年に、後ろ盾ともいうべきネ・ウィンが死去していたので、著者としては新たな生き残り策を模索し、結局はそれが裏目に出たのかなあ、などと考えました。

(10)1992年4月に軍事政権のトップがソー・マウンからタン・シュエに代わったのは、ソー・マウンに奇行が目立ち精神状態に疑問が持たれるようになったからだった。その際、著者がナンバー2だったタン・シュエと相談して対策の「必要がある」と結論し、ネ・ウィンに相談した。そこでネ・ウィンが「タン・シュエ君が代わりに国家の責任を担いなさい」と忠告し、翌日に軍の首脳陣を集めた極秘の会議でトップ交代が決まった:ここでもネ・ウィンが大きな役割を果たしていたわけです。

 そのほか、少数民族武装勢力の和平交渉の話なども興味深いのですが、やはり肝心の部分は明らかにしていない感じで、物足りないのは否めません。

 全体を読み通して強く感じたのは、著者の鈍感さです。例えば24頁には「国民に十分な愛情を真心を注ぎながら(政策を)実行したと思う」と書いているのですが、軍事政権に痛めつけられた人たちがどう受け止めるだろうかという想像力が多少なりともあれば、こんな書き方にはならないのではないか、と考えます。

 あるいは30頁で、1963年にサオ・シュエタイッの子息と話し合ったことを「良い兆し」などと評しているのですが、ビルマ初代大統領のサオ・シュエタイッが1962年のネ・ウィンによるクーデターの結果獄死したことを踏まえると、どうしてこんな書き方ができるのか、と疑問を覚えざるを得ません。

 そもそも「私の人生にふりかかった様々な出来事」という書名が、なんとも無責任な印象です。「軍事政権時代、国軍のトップ一人が権力者であり、国軍トップがすべてを決め、決定事項となった。これは国軍の伝統であり、この伝統に従わざるを得なかった」と著者は書いているのですが、こういう官僚的な鈍感さが全編を貫いているように感じました。いささか無理やりなたとえをすれば、アイヒマン的な鈍感さ、といえるでしょう。

 まあ少なくとも、「ナルコトピア」という本でパトリック・ウィンというジャーナストが本書の著者を独裁者と評しているのが誤りなのは確かだと言えるのですが。

 なお、おそらく相当にわかりにくいだろう原文をなんとか日本語に訳した訳者の方々には、深い感謝を表明したいと思います。ただ、千葉大学の石戸光教授が書いた「はじめに」は、差し替えた方がいいと考えます。なにしろ冒頭で、著者について「社会主義政権時代に同国の首相および国軍大将をつとめた」と紹介しているのですから。これでは一気に読む気が萎えてしまいます。

 一次史料(あるいは1・5次史料)であれば誤りがあるのはやむをえないわけですが、何も翻訳に際して誤りを追加することはないでしょう。残念です。