・外務官僚たちの大東亜共栄圏(熊本史雄著、2025年5月20日発行、新潮選書、1800円+税)
・日本が「大東亜共栄圏」という対外膨張策を構想し破滅するまでの過程を、日露戦後の外務官僚たちを主人公に論じるものである――というまえがきの出だしの一文が、本書の中身を簡潔に要約しています。「大東亜共栄圏」といえば従来、軍部の膨張主義やアジア主義などのイデオロギーとの関連で論じられることが一般的だった印象がありますが、実は「この無謀な構想が、外務省という官僚組織において外交思想の集大成として準備されたものであったことを示したい」、というのが著者の狙いです。この主張そのものには意外感を感じなかったのですが、学者さんらしい丁寧な論証は読み応えがありました。特に、日露戦争後の日本外交が「満蒙権益の維持・拡大」と「国際協調」の間で揺れ動いた、との見立ては、明快で説得力があると感じました。
取り上げている主な外務官僚は以下の通りです。
①小村寿太郎:「満蒙権益の確保」という路線を築いた、嚆矢的存在のようです
②小村欣一:小村寿太郎の息子で、外務省政務局第一課長として「支那全土を開放する」という路線を提案したそうです。著者はこの路線を「満蒙供出論」と名づけ、「当時の外務省ではきわめて異端的な考え方だった」、としつつ、これが「日本外交の基軸になっていれば、日本外交がその後に辿った軌跡は、違ったものになっていたかも」と評価しています。しかしこの路線は外務次官だった幣原喜重郎によって葬られ、小村欣一じしんも父親ほどの出世はできなかったようです。
③幣原喜重郎:まさに外務省の主流に位置した大物であり、「幣原外交」という言葉で知られるように、大正から昭和にかけて国際協調路線を牽引した外交官と一般にはみられてきました。が、著者の見方は異なるようです。上記の通り小村欣一の「満蒙供出論」を葬り、「満鉄中心主義」と呼ぶべき路線に固執した、というのです。とりわけ満州事変に際して外相として事態の収拾に失敗したことを、著者は厳しく指弾しています。
④重光葵:幣原と並ぶ主流派の大物といえるでしょう。1934年、外相の広田弘毅から在中国公使・有吉明に宛てて出された第109号電報を、外務次官として実質的に起草したのだそうです。当時、対中外交に広田外相は口をほとんど挟めなかったとか。とまれ、「対中国政策での各列国との協力・連携を完全に断ち切ろうとする排他主義」を打ち出した109号電を経て、日本を盟主とする「東亜」という考え方を重光は提唱し、追求して行った、と著者は指摘しています。
⑤有田八郎:三島由紀夫の「宴のあと」事件で有名な人物ですが、1930年代の終盤に外相をつとめ、首相の近衛文麿が打ち出した「東亜新秩序」論に呼応して広域経済圏構想を唱えたそうです。つまり、実質的に「大東亜共栄圏」を提唱したわけでしょう。
⑥松岡洋右:若くして外務省を退官し、曲折を経て外相に就いたという経歴をはじめ、この人物にはなんともクセがあるように感じます。とまれ、「大東亜共栄圏」という誇大妄想を追求するうえでは格好の外相だったように感じます。
著者の考えとは違うかもしれませんが、本書を読んで感じたのは「自分の野心のために外交を誤った」外交官たちが少なくなかった、ということです。日清戦争時の陸奥宗光もそうですが、小村寿太郎、加藤高明、広田弘毅、幣原喜重郎、重光葵、松岡洋右といった連中は軒並み個人的な野心に引き摺られて外交を展開した面があったように感じるのです。
本書は正面から取り上げていませんが、第一次世界大戦のどさくさに紛れて二十一ヶ条要求を袁世凱政権に突きつけた加藤高明外相(当時)は、その典型ではないでしょうか。奈良岡聰智さんという京大の先生が2015年に世に問うた「対華二十一ヵ条要求とは何だったのか」(名古屋大学出版会)という本を読んで感じたのは、首相になりたかった加藤がまさに国際協調より満蒙権益を優先したのだということです。
そういえば昨日(5月9日)は中国で、袁世凱政権が二十一ヶ条要求を受け入れた日だとして、「国恥記念日」になっているのでした。
で、戦後になっても個人的な野心が外交を歪めたかもしれない例として、1992年の天皇訪中が挙げられるかもしれません。ときの外相は渡辺美智雄でした。青嵐会出身でかつては対中強硬派だったはずですが、この頃は首相の座が目の前にちらついていて、首相になるための足掛かりとして天皇訪中を積極的に進めたようにみえるのです。というのも、当時の政界で最も強力だったのは自民党の経世会、つまり竹下派であり、経世会は親中派の巣窟だったからです。結果として、中国は1989年の天安門事件以来の西側の制裁を打破することに成功した、と、当時の中国の外交部長、銭其琛が「外交十記」という回顧録(邦訳は2006年に東洋書院から)で自慢げに書き記しています。
まあ、ここから先は妄想になってしまうのですが、中国側は渡辺美智雄の野心など日本側の思惑を見透かしたうえで、天皇訪中をしかけたのでしょう。というのも、銭其琛の次の外交部長に唐家璇が就任し、その次の次の外交部長に王毅が就任と、1980年から90年代にかけて対日外交で活躍した外交官が相次いで外交部(外務省)のトップに就いているのです。当時の対日外交は大成功だったということでしょう。
本書を読んで興味深く感じたことの一つは、三浦銕太郎や石橋湛山が唱えた「小日本主義」(満蒙や韓国の領有を放棄せよ、といった主張)が、外務省内では全く顧みられていなかったらしいことです。本書が割合好意的に評価している石射猪太郎(1937~38年に外務省東亜局長)は戦後に発表した回顧録「外交官の一生」(中公文庫)で、外交を進めるうえで輿論が最も恐るべき問題だった、という趣旨のことを記していますが、では当時の外務官僚たちが湛山らとの連携など積極的に世論に働きかける努力をしたのかどうか、正直なところ疑問に感じた次第です。
で思い出したのが、京大の高坂正尭教授が1963年に発表した「外交政策の不在と外交論議の不毛」という論文(著作集第1巻所収)です。これは戦後の外交政策と外交論議の噛み合わなさを指摘した文章で、最大のポイントは空想的な非武装中立論を唱える社会党への批判だったのですが、同時に自民党政権および外務当局(つまり外務省)が外交政策をめぐって世論への働きかけを十分に行なっていない、あるいは外国政策についての説明責任を十分に果たしていない、とも指弾していました。この構図は今もさほど変化していないように感じることがあります。