最近、ツイッターやネット掲示板の投稿を読んでいて感じることですが、
世の中には、物事の正否の判断自分の好き嫌いと区別するのが
苦手な人が結構いて、そういう人がなぜか特に日本人に多い気がします。

好き/嫌いは人間として自分を守る原始的な判断で、とても重要だし、
素早い反応は利点。非常時の敵/味方の判断も同じですね。

しかし、無意識にそれを物事(人)についての正否と置き換えて

好き=正しい
嫌い=正しくない

としてしまうと、困ったことになります。(まあ一致することもあるでしょうが、完璧に一致する単純なケースは現実にはそうないと思います。)

先日、話題になっていたことですが
(参考→河本準一の母、生活保護不正受給騒動 Naver まとめ)
高収入なのにもかかわらず母親が生活保護を受給していた芸人を
非難する多くの声が上がっていました。
そういう中で、例えばこんな会話。

A 「不正かどうかは司法が判断することなのに、不正受給と書き立てて非難するのは間違っている」
という意見に対し、
B 「なぜ、この芸人を擁護するのか?高収入があるのに生活保護なんて、悪いのは当たり前だろう」
といった反論。

う~ん、Aは擁護しているのではなく、「不正受給と書くのは間違っている」と言ってるだけなので、Bの反論は的外れですよね。

(あれっ?でも擁護していると感じましたか? もしそうだとしたら、あなたも、この芸人が高収入なのにもらえるものはもらおうという態度が気に喰わないとか思っているのかも?文章を論理で解釈せずに感情的に読んでいる可能性はないでしょうか?^^もしかして、そういう読み方が心情理解を大切にする国語力のある読み方なんでしょうか?)

誤解しないで欲しいのですが、何も私は、擁護していると感じた人がダメな人だと言いたいのではありません。
気に喰わなくったっていいです。好き嫌いって自由だし、別に構わないと思うのです。
ただ、
「ああこれって、私はこういうのが嫌いだから、こう考えてしまうんだな」
というのは、しっかり意識してほしいのです。

その意識がないと「気に喰わない、嫌い」などという反証不可能なモノにいろいろ理屈をくっつけてしまうことになるので、議論が噛み合いません。意味のある議論に進展しないのです。
そういうやり方だと、せいぜい同じような仲間と集まって合唱するくらいが関の山でしょう。

これと同じような例は、本当に沢山あって書ききれませんが、最近の書いたブログの記事
意見と人格を分けて考えられない日本人~瀬戸内寂聴さんの発言に対する批判より~
も同じことが言えるでしょう。
発言の一部に対する批判=発言全体(その人全体)への批判

と感じてしまうのは、好き/嫌い 敵/見方 のどちらかしかないという
二元論で 物事(人)を判断しているからではないでしょうか。

いろいろ偉そうなことを書いていますが、もちろん私自身だって好き嫌いで判断してしまうことはあります。
かなり子供っぽい面があるのは自覚しています。 好きな事、自分にとって大切な事にはこだわりを持ってますし、精神的に追い詰められたりしたときなど、何でも自分の都合のよい解釈してしまうという事が過去にもありました。今だって、そうならないように常に意識しているわけです。
(趣味や個人の楽しみなど好き嫌いで判断して当然なものは別の話ですよ)

何が言いたいのかと言うと、二元論の危険性です。二元論者はその人自身の世界観を狭めるだけでなく、陰謀説などデマの発信源になったり、その伝達に手を貸す危険性のある人ということなのです。二元論で自分が正しいと判断すると、それはもう絶対ですから、敵と見なした相手には全く容赦ないです。相手の人権侵害に及ぶこともでも、正義のためなら当然と思えてしまえるくらいの威力があることのようです。

こんなこと意識していない多くの人たちは、自分には関係ないことだと思われるでしょうが、
そういう無自覚こそが怖いことなのだと思います。知らないうちに自分が残酷なことに手を貸している可能性があるのですから。

もしかしたら、私だってそうかもしれません。なので、こんなこと書いているが、ブルンは間違っていると思われた方、どうぞご指摘下さいね。(^^)


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