娘の、友人たちとのやり取りを見ていて、ときどき
「私が中学生の頃、こんなにまで友だちに気を遣ってだろうか?」
なんて思うことがあります。
相手を気遣うコミュニケーション能力がすごく高度なものに思えてしまうことがあるのです。子供の能力についての親バカとかそういうのではなくて(;^_^A ここまで必要なのか?と、なんだか危なっかしいというか、もし一旦躓いたら、二度と立ち直れないくらいのダメージを受けるんじゃないか?と、心配してしまうくらい繊細な人間関係を生きているような気までしてきます。実際、一度グループからはみ出してしまうと、他のグループに入るというのは容易なことではないようです。なので、グループ内では、できるだけ対立しないよう、あえて直球で言葉を返さず、ぼかし表現を多用し、話の次元も微妙にずらして違和感を表明したりする、そして、ケータイメールで常にお互いを確認し合っているんですね。相手に対してというよりも、むしろこういう関係の維持に対して繊細な配慮を施しているといった感じです。
の記事で紹介した著書では
こういう関係のことを「優しい関係」と定義されています。
著者は、日本が個性重視の教育へ転換してきたことと、子どもたちのこの優しい関係とには何らかの繋がりがあると示唆しています。
個性というのは、本来相対的なもので、そこには他者の視点が必ず必要です。個性は生まれもったものからスタートしても、社会生活の中で成長し、人間関係の中で作り上げていくものでもあるのです。人格が社会の中で形成されていくという概念ですね。
しかし、個性を生まれながらの絶対的な自分らしさと捉えることは、「本当の自分」をさがすために終わりのない旅に出るようなもので、非常に不安な状態になってしまいます。
そこで、その不安を解消するために、身近な仲間から常に承認してもらう必要があるというわけなんです。それが優しい関係の仲間たちということのようです。
社会的な視点に欠ける自分らしさとは、あやふやで不安定なものです。自分らしさなんて気分次第でいくらでも変わりますから。「良いか悪いか」というより「好きか嫌いか」で、判断してしまいがち。「むかつく」「上からの目線」「生理的にムリ」なんて言葉の根っこにあるものも、こうした優しい関係に支えられた自分らしさにあると言われれば、そうかもしれないなぁ・・・と思います。仲間内では過剰なくらい繊細な気配りをする一方で、仲間の外の人間に対しては、あたかも存在しないかのようであったり(電車の中でお化粧ができる感覚?) 驚くほど残酷であったり、これは最近の少年犯罪に見られる特徴でもあるようです。
この著者の本をあと一冊紹介します。
- 友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)/土井 隆義
- ¥798
- Amazon.co.jp
この本に関連することは、また次の時に・・・