【8年前の人気だったブログコンテンツ】人気の大谷善継に纏わる有名なお話!!ご存じですか? | Be an optimist and always believe in A Brighter Future!!

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UCLA卒業、バブル時代商社でサラリーマンを経験し、故郷上田でビンテージバイクの輸入販売をはじめ現在に至る。古き良き時代のJapanese Vintageバイクの魅力を配信中!!

ダウンダウンダウンダウンダウン2016年9月8日(8年前)

★★★ 「真田丸」もいよいよ天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まるので、ここで、いまだ人気の過去のBRUIN Blogページをアップしますね!! ★★★

 

  皆さん、こんばんは、気がつけばあたりは真っ暗に、今日は、一日、ご注文を頂いているKZ1000 Lincoln Blackのレストア作業であっという間にこの時間になりました。

 ここで、毎朝のBlogアクセス解析で、未だに多くの方達が繰り返し、ご覧になってくれている関ヶ原での大谷善継の自決後のお話を、再度ご紹介したいと思います。 現在放映中の「真田丸」でも、大谷善継の人気は凄く、多くの歴女の心を射止めているそうです。徳川家康にも信頼されていた武将で、真田信繁の正妻の父に当たる男気を感じさせてくれる粋な武将だったようです。400年以上前の事なので、はっきりした当時の資料は残っていないようですが、関ヶ原で、小早川秀明の裏切りで、攻められ、自決を選択した大谷善継は当時、今で言う所のハンセン病にかかっていたそうで、「真田丸」でも前回では、そのような病気だったメイクをしていましたが、当時、敵方の武将の生首を戦利品のように扱われた時代、大谷善継はその哀れな自分の首を、どうしても家康側に見せたくなかったようで、下記の説明文のように、介錯後は、自分の首を絶対人目に付かない所に埋めて欲しかったようで、それを家臣に遺言として言い残して、この世を去ったようです。詳しい内容については下記をご覧になり、プライドが高かった戦国武将とその家臣の泣かせるStoryをお読みください。次回の「真田丸」は、いよいよ関ヶ原が見られますので、是非、このStoryを思い浮かべながら「真田丸」をご覧くださいね!!叫び

 

 

ダウンダウンダウンダウンダウン2014年10月8日

 

 

☆☆☆朝から超ビックリしました!! あの関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた湯浅五助の子孫だそうです☆☆☆



  皆さん、こんにちは、さて今日の上田は朝から天気がいいです。 しばらく前に、初期型Z1を購入された地元坂城町の湯浅さんが、キャブレター調整で数日預 かっていた車両を有休が取れたと言う事で、今日の晴れの日に引き取りに来ました。 購入時は聞いてなかった話ですが、何と湯浅さんはあの関ヶ原の戦で小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた湯浅五助の子孫だそうで、関ヶ原の戦の直後に翠川という姓の同士と今の坂城町に逃げてきたそうです。まさかの話に超ビックリ!!
 

 

 

 

 

 


*下記がGoogleで検索して出てきた関連記事ですので、時間があるときに目を通してみてください!!

   
 

湯浅五助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

湯浅 五助(ゆあさ ごすけ、生年不詳 - 1600年10月21日慶長5年9月15日))は、戦国時代武将大谷吉継家臣は隆貞(たかさだ)とされる。

生涯[編集]

元 は関東浪人で、三十代にして大谷吉継に仕えた新参衆、小身の武士であり、馬屋別当の職にあったとされる。吉継の家臣の中でも、特に武勇に秀でた槍の名手で あったといわれる。岡部小衛門・富永主膳・中田六兵衛らとはしばしば語らいをなし、「いかにもしつかに物やわらかなるよきもの」と評される人格者、「それ ほと主人の用に立申候」と評されたという。

関ケ原町の大谷吉継の墓(右)の隣にある湯浅五助の墓(左)

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。この際、ハンセン病を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。藤堂高虎は、の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わなかった。その姿勢に家康は感心し、自分のを与えたという(『平尾氏箚記』)。

墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されたものである[1]

脚注[編集]

関連項目[編集]

*関ヶ原に残る大谷善継の墓
 

 

0092大谷吉継陣跡へ

【関ヶ原西軍の史跡レポ 5/11】

関ヶ原古戦場でも石田三成の笹尾山と並んで人気の史跡が、この大谷吉継の墓と陣跡です。墓のすぐ側に陣跡もありますので、墓の看板に従って山中に進むと着きますが、やはり山なので足元は固めて行きたいですね。

時に女性の方はハイヒールではなく、できればスニーカーなどがいいでしょう。また夏場は薮蚊をはじめ虫に悩まされる季節でもあります。

 

0093大谷吉継墓

↑途中、陣跡の方向と二手に分かれますが、まずは墓の方へ行ってみましょう。

関ヶ原合戦前に三成の挙兵が無謀に近いと思った吉継は、平塚為広と共に三成を諌めますが、三成の意思は固く、そんな三成をフォローするカタチで参戦する事になってしまいました。

病のために実際には大谷隊の指揮は平塚為広が執っていたともいわれますが、それでも自身は輿に乗って参戦したと伝わります。

 

0099小早川秀秋

↑戦い半ばになり、小早川秀秋が予想通り裏切ると、大谷隊は小早川隊と激戦を繰り広げ、三度追い返したと伝わります。

この時の激戦ぶりはかなり凄まじかったらしく、東軍から小早川秀秋の監視役として派遣されていた、奥平貞治も重傷を負うほどで、この時の傷がもとで、貞治は合戦後に亡くなったとも伝わるほどでした。

また大谷隊は勢いに乗り、小早川隊を逆に追撃するほどだったそうですが、この時、東軍であった藤堂隊、京極隊に加え、小早川隊に呼応するカタチで東軍となった、脇坂、赤座、小川、朽木の4隊、約4,200人が、大谷隊の側面から横槍を仕掛けます。

これにより大谷隊は前面から東軍、そして側面から脇坂らの内応諸隊、さらに体制を立て直した小早川隊が背後から襲いかかり、包囲され、猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅。

吉継も自害しました。享年42。

 

また平尾氏箚記という記録にこの時のエピソードが記載されています。

それによると吉継はこの時、ハンセン病を患っており、敵に首を渡すことを恥として、側近の湯浅五助に首を討たせ、五助は主人である吉継の首を陣から離れた場所に埋めました。

しかし埋め終わった直後に、敵である藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑(とうどう たかのり)に発見されてしまい、『私の首を差し上げます。しかしその代わりに、主君の首をここに埋めたことは内緒にしてほしい』と頼み、藤堂高刑はそれを承諾して五助の首をとりました。

 

この事を聞いた藤堂高虎は、甥である高刑が湯浅五助の首を取ったことを大変喜び、徳川家康の本陣に報告します。

五助の首を見せた時、家康はその手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近の湯浅五助なら主君である吉継の居場所も知っているはずだろうと、高刑に吉継について聞こうとしますが、高刑は五助との約束を守り、決して吉継の事や首を埋めた場所について何も言わなかったそうです。

高刑は吉継の首を埋めた場所を知っているので、その首を掘り起こして家康に差し出せば、莫大な褒美をもらうこともできたのでしょう。

しかし高刑は五助との約束を守り、決して言わなかったとか。

その姿勢を家康は罰するどころか感心して、自分の槍と刀を与えたそうです。

 

 

0094大谷吉継と湯浅吾助の墓

↑合戦後、まもなく藤堂家によって大谷吉継の墓が建立され、大正五年(1916)には、そのとなりに湯浅五助の子孫により五助の墓も建立されました。

関ヶ原で露と消えた主従ですが、今でも二人の生き様に感銘した人達は多く、関ヶ原を訪れた人達や地元の人達によって献花も絶えることがありません。

観光スポットというより、キホン墓なので、節度をもって参拝したいですね。

 

 

 

* 何処かで見たステッカーだと思ったら、2011年4月16日に上田の城跡公園で「BGチャリティーミーティング in 上田」をしたときに、東北三県に義援金を募ったイベントの際、参加者で綱引きを行った時に、勝ち組に配ったBGのステッカーでした!! 自分は、一枚も もっていなのですが、ここで見るとは、二度ビックリ!! 湯浅さんはあのチャリティーミーティングに来てくれて事を初めて知りました。 口数の少ない方な ので、言ってくれないと分からないですよね!!
 

 

 


だんだん2016年NHK大河ドラマ「真田丸」のスタートが楽しみになりますね!!

 

それでは、 Have a pleasant afternoon, everyone!!
 

 

From BRUIN Shinsyu Ueda Japan
Since 1999
Oct 8. 2014

 



 

 

*上記Picは、BG連載”幸村を追走する”で、”Z1"で関ヶ原の戦いをイメージして、BG編集部、鈴木広一郎さんが走った時の物です。いよいよ命をかけた天下分け目の男の戦が見られますよ!!次回の「真田丸」はお見逃しなく!!グッド!グッド!グッド!

 

大河ドラマ真田丸あらすじネタバレ36話「勝負」9月11日(日)

 

第2次上田合戦の幕が切って落とされます。

昌幸(草刈正雄)と信繁(堺雅人)は、
徳川軍の先ぽうとなった信幸(大泉洋)
との直接対決を強いられるのですが、

信繁は、徳川勢を撃退しつつ、信幸とは戦わない一計を案じるのです。

あらすじ解説36話「勝負}信幸と戦わない信繁の一計

①昌幸(草刈正雄)と信繁(堺雅人)は、信幸(大泉洋)と別れ、
徳川勢を迎え撃つために上田城へ。

真田丸35話の放送では、犬伏(現在の栃木県佐野市犬伏新町)で徳川
と豊臣(石田三成側)のどちらに付くか激論を戦わした真田父子は、
昌幸と信繁は豊臣に、信幸は徳川に付くことになりました。

信幸は家康の家臣・本多忠勝の娘を妻に、信繁は石田三成の友人
大谷吉継の娘を妻にしているからです。

また昌幸は妻が石田三成の妻と姉妹関係にあったことと、第一次
上田合戦のときから家康が大嫌いになっていたからのようです。

その日は慶長5年(1600年)7月21日。関ヶ原の合戦は9月15日です。

そのため、昌幸と信繁は自分たちの城である上田城で戦をする
ために上州(群馬県)に向かいます。

信幸は、犬伏(いぬぶし)で徳川家康を待ち、昌幸と信繁が豊臣に
付いたことを報告すると言っていました。

②途中、昌幸と信繁は沼田城に立ち寄るが、稲(吉田羊)は思いがけない行動に出る。

昌幸と信繁が沼田城に立ち寄ると、留守を預かる信幸の妻・稲
(後の小松姫)が昌幸の計略を見抜いて開門を拒み、

「たとえ舅殿でも敵を城内に入れることはできませぬ」と断って沼田城
を守ったという有名な逸話があります。

その時、昌幸が「老い先短いので、孫に会いたいだけだ」と
言ったため、その後、稲は城外で昌幸に孫を会わせたといいます。 

昌幸は稲のこれらの行動を、武士の妻はこうあるべきと、ほめ
称えたとされています。

※犬伏の別れをして間もないのに、もう昌幸と信繁が敵方になった
ことが知らされたのでしょうか。大したものですね。

 

 

 

 

 それでは、Wishing You All Have A Pleasant And Joyful Afternoon, Everyone!!

From BRUIN Ueda-City, Nagano-Pref, Japan

Since 1999

Sep 8.2016