2016年1月11日(8年前)
☆☆☆☆昨日、初回「真田丸」試写用を楽しんできました!!☆☆☆☆
皆さん、おはようございます。 今日、成人の日(Monday)はBRUINはお休みですが、昨日、上田市の合併10周年を記念して、平成28年の大河ドラマ「真田丸」の第1回放送のパブリックビューイングに行ってきました。 会場となった上田市サントミューゼ 大ホールは眞田の赤備えをイメージさせる赤い洋服をまとった観客で一杯でした。朝刊によると、1400人ほどの眞田ファンが集まったそうです。 私も、店を早く閉店し、BRUINスタッフと一緒に観賞してきました。 遅れて私たちが大ホールに入場した時には、すでに上田市公認”眞田おもてなし隊”の皆さんによる舞台が行われていました。 その後、ビックスクリーンで第一話を歓声が飛び交う会場で楽しんできました。
一言、コメントと聞かれれば、まず、30年前の池波正太郎さんの「真田太平記」とは、もちろん時代も違いますが、最新のCGテクノロジーも加わり、映像テクニックの面で時代の変化を感じました。また、ストーリーに関しては、かなり歴史に忠実であり、独特の三谷さんタッチで笑いを集める場面が印象に残りました。 会場にいた、Young Peopleから、歴史好きなCoreな観客も十分楽しめるドラマになっていると感じました。 主役真田信繁の父、昌幸が武田信玄亡き後の武田家家臣の時代(1582年)からのストーリー展開で、当時の有力大名、上杉、北条、徳川、織田家が乱立していた時代背景がうまくCGを使い表現されていました。 細かい話をしだすときりがないのでこの辺で終わりにしますが、遠くは東京、愛知から会場に詰めかけた観客は大いに盛り上がり、初回「真田丸」をEnjoyしました。
大河ドラマ「真田丸」第1回放送パブリックビューイング
![ロゴスペース](https://pid.nhk.or.jp/event/PPG0271684/20151117162428522.jpg)
NHK長野放送局と上田市、大河ドラマ「真田丸」上田市推進協議会では、上田市の合併10周年を記念して、平成28年の大河ドラマ「真田丸」の第1回放送のパブリックビューイングを実施します。観覧をご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
上田市合併10周年記念事業 真田丸第1回放送パブリックビューイング
大河ドラマ「真田丸」の記念すべき第1回目の放送を、BSプレミアムで2時間早くサントミューゼの大スクリーンで鑑賞します。大勢の皆さんと鑑賞し、真田丸イヤーのスタートを盛り上げましょう。
- 日時 平成28年1月10日(日曜日)午後5時30分~7時00分(予定。開場5時00分)
- 場所 サントミューゼ 大ホール
真田一族といえば、真田幸隆-真田昌幸-真田幸村(信繁)の3代が有名ですね。特に幸隆から数えて孫に当たる真田幸村は、「真田日本一の兵(さなだ ひのもといちの つわもの)」と謳われ、大阪の陣における華々しい最期が日本人の心を捉えて、現代でも絶大な人気を誇っています。
その真田3代の中で特別異彩を放つのが、2代目の真田昌幸であることは皆さんご存知か もしれません。真田幸村は散りゆく姿が美しかったために有名になってしまった一発屋ですが、真田昌幸に関しては徳川-北条-上杉の3大勢力に挟まれながら も、小豪族の身から大名にまでのし上がり、徳川家康の軍勢を2度に渡り撃退した功績があります。本コラムでは、表裏比興の者と呼ばれた男、真田昌幸の功績 について3回に渡って紹介していきたいと思います。
真田昌幸について
真田昌幸・・・真田幸隆の3男として武田信玄-武田勝頼に仕える。武田信玄にその卓越した戦術眼を見出され「わが眼(まなこ)」と称される。主家滅亡後は織田家-北条家-徳川家-上杉家-豊臣家とめまぐるしく主を替え、表裏比興の者と呼ばれる。徳川家康の侵攻を2度に渡り撃退し(上田合戦)、大坂の陣においては死してなおも家康を恐れさせる。
①表裏比興の者とは
表裏比興の者とは、卑怯(ひきょう)という言葉から連想されるように、態度や去就をコ ロコロと替える者といってよいかと思います。というのも、真田昌幸のような小豪族の身にあって、周囲を徳川-北条-上杉の3大勢力に挟まれている状態で は、情勢の急激な変化に上手く対応しなければならず、むしろ世渡り上手と賞賛されるべき意味合いを含んでいるかと思います。
②主をめまぐるしく替える
1582年3月に武田家が滅亡し、追って1582年6月に本能寺の変によって織田家が崩壊に向かいます。織田家が崩壊したことにより、武田遺領の甲斐国・信濃国は大名達の格好の草刈り場と化します。
天正壬午の乱 ※薄色はそれぞれが獲得した領土
この徳川-北条-上杉の3大勢力が激突する中、真田昌幸はその表裏比興の才覚を持って自分の領地を守ることに留まらず、領地の拡大まで果たします。そして信濃の小豪族にすぎなかった真田家を一躍大名にまでのしあげることに成功します。
天正壬午の乱
天正壬午の乱 | |
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戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:天正10年(1582年)6月 - 10月29日 | |
場所:甲斐・信濃・上野 | |
結果:北条・徳川両軍の間で講和 | |
交戦勢力 | |
北条軍![]() |
徳川軍 |
指導者・指揮官 | |
北条氏直 北条氏忠 北条氏勝 北条氏邦など |
徳川家康 依田信蕃 酒井忠次 鳥居元忠など |
戦力 | |
53,000以上 10,000(黒駒合戦) |
10,000以上 2,000(黒駒合戦) |
損害 | |
300(黒駒合戦) | 不明 |
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、天正10年(1582年)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。
目次
概要
本能寺の変によって空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った出来事である。さらに真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。
大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次 第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉へ の寝返りが発生し、昌幸が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、景勝は北部4郡の支配を維持、家康は上杉領・ 真田領を除く信濃と甲斐全域、氏直は上野南部にとどまった。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。
この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に大きな影響を与えていくこととなる。
背景
織田氏による甲州征伐と北陸侵攻
天正10年3月に甲州征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を以下のように家臣に分与する。
*昨日、頂いたGoodsの中に、17日にOpenする「信州上田真田丸大河ドラマ館」の入場券も入っていました。
第二話の17日までに、真田信繁の父、草刈正雄さん演じる昌幸公に付いて少しお勉強をしておくと、これからより深く、楽しく「真田丸」を見ることができるので、YouTubeで一杯出ているので検索してご覧になってください。
それでは、成人の日の祝日をEnjoyしてください!!
Make Your Holiday Joyful and Be Active Even In Chilly Winter, Everyone!!
From BRUIN Ueda-City, Nagano-Pref, Japan
Since 1999
Jan 11. 2016