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ダウンダウンダウンダウンダウン2015年4月7日(7年前)

☆☆☆昨日は、ロングドライブでした!!☆☆☆


皆さん、こんにちは、現在も上田の空は不機嫌で、雨が降ったり止んだりの状態です。 さて、昨日の定休日は往復950キロのドライブでした。 次男の入学式で山形県体育館に行ってきました。 この霞城公園もそうですが、山形城の事もほとんど知りませんでしたが、かなり広い公園で、入り口近くには立派な最上義光が馬に乗った銅像があり、これからの花見の時期はかなり人気の公園ですね。 明日8日から始まる「上田城千本桜まつり」より、ここの桜は少し遅いようです。 山形市内をドライブしましたが、道路も広く、変わりやすい城下町と言った印象を受けました。 高速で山形に向かう途中に、仙台方面の標識を見て、自分は仙台にも行った来ない事に気づきましたね。 そうなんです、どうしてもアメリカ文化、アメリカ大陸にいままで夢中だったので、ほとんどの日本の名所には行ったことがない事に、今頃気づきました。 また、この次は真田幸村と共に人気戦国武将”伊達政宗”の仙台に行きたいと思っています。 知りませんでしたが、伊達政宗は山形藩主最上義光の妹と父、伊達輝宗との間に生まれた嫡男だったんですね!! 一つ勉強になりました!!

 

伊達政宗

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伊達 政宗
伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆)
数少ない隻眼で描かれた肖像画。
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 永禄10年8月3日1567年9月5日
死没 寛永13年5月24日1636年6月27日
別名 幼名:梵天丸、仮名:藤次郎、渾名:独眼竜
神号 武振彦命
戒名 瑞巌寺殿貞山禅利大居士
墓所 瑞鳳殿青葉神社妙心寺塔頭蟠桃院
官位 従五位下左京大夫侍従越前守
従四位下右近衛権少将陸奥守
正四位下参議従三位権中納言
従二位
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
仙台藩初代藩主
氏族 伊達氏
父母 父:伊達輝宗、母:義姫最上義守の娘)
兄弟 政宗小次郎(政道)、秀雄、千子姫
正室:愛姫田村清顕の娘)
側室:
新造の方飯坂の局(松森御前)ほか
秀宗忠宗宗清宗泰宗綱宗信
宗高、竹松丸、宗実宗勝亘理宗根
五郎八姫牟宇姫岑姫千菊姫津多

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国陸奥国戦国大名伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。

伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれた嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

山形城

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山形城
山形県
復元二の丸東大手門
復元二の丸東大手門
別名 霞城、霞ヶ城、吉字城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし(御三階櫓)
築城主 斯波兼頼
築城年 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)
主な改修者 最上義光鳥居忠政
主な城主 最上氏鳥居氏堀田氏
秋元氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀、移築門、移築御殿
指定文化財 国の史跡
再建造物 二の丸東大手門、大手橋
位置 北緯38度15分12.84秒
東経140度19分44.56秒
霞城公園北門にある史蹟山形城址碑
復元された本丸一文字門
二の丸南大手門の石垣

山形城(やまがたじょう)は、山形県山形市霞城町にあった日本の城。別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。また、吉字城とも呼ばれた[1]。国の史跡に指定され、日本100名城に選定されている[2]

 

概要[編集]

おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。建造物では、大手南門が、市内の万松寺山門として移築され現存する。また、市内八日町宝光院の本堂は、御殿の建物を移築したものといわれている(県指定文化財)。

山形市は、2033年をめどに本丸全体の発掘調査を完了させるとともに、本丸北枡形の復元を完了することを計画している。2012年度末現在、本丸は一文字門及び御殿等の写真・図面などの史料が発見されていないことにより、大型建築物の復元のめどは立っていないが、本丸大手門の高麗門及び土塀は時代考証に基づき復元が行われている。2013年の発掘調査は本丸西側濠の遺構が中心となり、本丸濠南西部に関しては本丸土塁構築が出来る状態となっている。2013年の発掘調査では三の丸跡から奈良・平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見され、城下町は古代から存在した集落を基盤として形成されたのではないかとみられている[3]

歴史・沿革[編集]

前史[編集]

山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りに位置する。羽州街道笹谷峠の合流点に当たり、鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えた。

最上氏による築城[編集]

1356年南朝正平11年、北朝延文元年)に斯波兼頼羽州探題として山形に入部し、1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった[4]最上義光が、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれた。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となる。

江戸時代[編集]

元和8年(1622年最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされた。鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。


 

 


 

 

 

 

それでは、明日から始まる「上田城千本桜まつり」にお出かけくださいね!!
 

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Apr 7.2015