2013年2月26日(8年前)
希少Z1Bオリジナルの松本ナンバーが届きました。これから、天気の良い時にテスト走行しておきますので,もうしばらくお待ちくさい。上田は、3月に入っても雪が降ることが結構ありますので、納車が遅れるケースもありますがゆっくりお待ちくださいね。下記写真は昨年のBG企画”幸村を追走する”で松代ロケを行った時の西村Twins姉の梨沙ちゃんと茶玉虫Z1のショットです。 幸村の兄で徳川家に仕え、真田家を守った信之(松代藩主)の家老の家の前でのショットです。知らない方もおられると思いますので、説明しますとBRUINがある信州上田は真田三代、乱世の戦国時代たくましく信念を貫き生きた、幸隆、昌幸、幸村、ゆかりの地で、六紋銭を旗印に日本をもっと元気にと積極的に活動を行っています。大坂夏の陣で家康を討つべく、勇敢に戦い命を落とした幸村の没後400年にあたる2014年のNHK大河ドラマはかないませんでしたが、地元上田は大河ドラマ実現を願って今後も努力していきますのでご協力お願いします。戦国武将人気ナンバーワン幸村の兄”信之”のご紹介もご覧下さいね。![]()
Photo Given By Kouichirou Suzuki
こうやって見ると、茶玉虫カラーは日本の江戸文化家屋とマッチしますね!! 渋くて最高ですね。![]()
真田信之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真田 信之
時代
戦国時代
- 江戸時代
前期
生誕
永禄
9年(1566年
)
死没
万治
元年10月17日
(1658年
11月12日
)
改名
源三郎(幼名)→信幸(初名)→信之
別名
一当斎(号)
戒名
大鋒院殿徹巌一当大居士
墓所
長野県
長野市
松代町
の長国寺
長野県長野市松代町の大鋒寺
和歌山県
伊都郡
高野町
高野山の高野山
蓮華定院
官位
従五位
下、伊豆
守、従四位下侍従
幕府
江戸幕府
主君
徳川家康
→秀忠
→家光
→家綱
藩
信濃
上田藩
主→松代藩
主
氏族
武藤氏
→真田氏
父母
父:真田昌幸
、母:山手殿
(寒松院、宇多頼忠
の娘)
兄弟
信之、信繁
、昌親
、信勝
妻
正室:小松姫
(本多忠勝
の娘)
側室:右京(玉川秀政
の娘)、真田信綱
の娘
子
信吉
、信政
、信重
、まん(高力忠房
室)
まさ(佐久間勝宗
室)、道鏡慧端
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代
から江戸時代
前期の武将
、大名
。信濃
上田藩
の初代藩主。後に信濃松代藩
の初代藩主。
生涯 [編集
]
武田家臣時代 [編集
]
永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸
)の長男として生まれる。父昌幸が甲斐国
の武田氏
に臣従したため、信幸は武田氏の人質
として過ごした。天正7年(1579年
)、武田勝頼
の嫡男・信勝
の元服
と同時に元服を許され、信勝の1字を賜って信幸と名乗った。天正
10年(1582年
)に武田氏が織田信長
によって滅ぼされると父の元へと逃れた。
武田滅亡後 [編集
]
真田氏
は織田氏
に臣従し、本領を安堵されるも、僅か3ヶ月後に信長が本能寺
で横死する(本能寺の変
)。信長の死を知った北条氏直
は織田家臣・滝川一益
を神流川の戦い
で破ると、真田氏は後北条氏
に臣従の構えを見せた。
同じ頃、上杉景勝
が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城
を撹乱した。だが、やがて徳川家康
の家臣・依田信蕃
、叔父の真田信尹
らの誘いにより、沼田城
を北条方から奪還、真田氏は北条氏に敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳
軍5,000が防衛する手子丸城
を僅か一日で奪還し、武功を挙げた(加沢記)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田氏は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
天正12年(1584年
)、真田氏は小県郡
を支配する室賀氏
と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀義澄
を殺害し、真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦
の奇襲を察知した信幸は吾妻
仙人ヶ窟にてこれを撃退している(松城通記)。
徳川家臣に [編集
]
父が家康に一時は臣従して上杉軍と交戦するも、天正13年(1585年
)、昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、上杉氏に臣従すると信幸は父と共に徳川軍と戦った(第一次上田合戦
)。信幸は支城の戸石城
に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。
その後、昌幸は豊臣秀吉
に臣従し、天正17年(1589年
)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝
の娘・小松姫
を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた。
一説によると、井伊直政
が信幸の戦場での活躍を聞き、それを徳川家中に話した事が婚姻の経緯だと言われている。
天正18年(1590年
)の小田原征伐
では上野松井田城
攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。文禄
3年(1594年
)11月2日には従五位
下伊豆
守に叙任される(同日、弟真田信繁
は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役
では肥前
名護屋
まで赴いている。
関ヶ原の戦い [編集
]
秀吉死後、慶長
5年(1600年
)に失脚していた五奉行
の石田三成
が挙兵する。父(妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の信繁
(妻が大谷吉継
の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、徳川家康の養女を妻とする信幸は家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠
軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に義弟の本多忠政
と共に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
信幸は弟・信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、信繁も兄の意を汲み開城に応じた。信幸は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は上田合戦の経緯とは関係の無い、上洛を命じる使者の遅れにより関ヶ原の戦い
には遅参し、本戦には参加することができなかった。
幕藩体制下 [編集
]
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩
主となったが引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊
九度山
へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
慶長19年(1614年
)からの大坂の陣
では病気のために出陣できず、長男の信吉
と次男の信政
が代理として出陣している。元和
8年(1622年
)、信濃国松代藩
に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
明暦
元年(1656年
)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助
が既に死去していたため、次男の信政に家督
を譲って隠居
する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利
が次男の血統(信政の六男)である幸道
の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩
として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月に死去。享年
93。
墓所は長野県長野市の大鋒寺。肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺真田山長国寺
には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫
が老中
となっている。明治には子爵(後に伯爵)家となった。
人物・逸話 [編集
]
辞世の句 [編集
]

「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代 前期 |
|---|---|
| 生誕 | 永禄 9年(1566年 ) |
| 死没 | 万治 元年10月17日 (1658年 11月12日 ) |
| 改名 | 源三郎(幼名)→信幸(初名)→信之 |
| 別名 | 一当斎(号) |
| 戒名 | 大鋒院殿徹巌一当大居士 |
| 墓所 | 長野県
長野市
松代町
の長国寺
長野県長野市松代町の大鋒寺 和歌山県 伊都郡 高野町 高野山の高野山 蓮華定院 |
| 官位 | 従五位 下、伊豆 守、従四位下侍従 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家康 →秀忠 →家光 →家綱 |
| 藩 | 信濃 上田藩 主→松代藩 主 |
| 氏族 | 武藤氏 →真田氏 |
| 父母 | 父:真田昌幸 、母:山手殿 (寒松院、宇多頼忠 の娘) |
| 兄弟 | 信之、信繁 、昌親 、信勝 |
| 妻 | 正室:小松姫
(本多忠勝
の娘) 側室:右京(玉川秀政 の娘)、真田信綱 の娘 |
| 子 | 信吉
、信政
、信重
、まん(高力忠房
室) まさ(佐久間勝宗 室)、道鏡慧端 |
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代
から江戸時代
前期の武将
、大名
。信濃
上田藩
の初代藩主。後に信濃松代藩
の初代藩主。
生涯 [編集 ]
武田家臣時代 [編集 ]
永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸 )の長男として生まれる。父昌幸が甲斐国 の武田氏 に臣従したため、信幸は武田氏の人質 として過ごした。天正7年(1579年 )、武田勝頼 の嫡男・信勝 の元服 と同時に元服を許され、信勝の1字を賜って信幸と名乗った。天正 10年(1582年 )に武田氏が織田信長 によって滅ぼされると父の元へと逃れた。
武田滅亡後 [編集 ]
真田氏 は織田氏 に臣従し、本領を安堵されるも、僅か3ヶ月後に信長が本能寺 で横死する(本能寺の変 )。信長の死を知った北条氏直 は織田家臣・滝川一益 を神流川の戦い で破ると、真田氏は後北条氏 に臣従の構えを見せた。
同じ頃、上杉景勝 が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城 を撹乱した。だが、やがて徳川家康 の家臣・依田信蕃 、叔父の真田信尹 らの誘いにより、沼田城 を北条方から奪還、真田氏は北条氏に敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳 軍5,000が防衛する手子丸城 を僅か一日で奪還し、武功を挙げた(加沢記)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田氏は北条方を沼田から駆逐することに成功する。
天正12年(1584年 )、真田氏は小県郡 を支配する室賀氏 と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀義澄 を殺害し、真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦 の奇襲を察知した信幸は吾妻 仙人ヶ窟にてこれを撃退している(松城通記)。
徳川家臣に [編集 ]
父が家康に一時は臣従して上杉軍と交戦するも、天正13年(1585年 )、昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、上杉氏に臣従すると信幸は父と共に徳川軍と戦った(第一次上田合戦 )。信幸は支城の戸石城 に兵300余名で着陣、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献した。
その後、昌幸は豊臣秀吉 に臣従し、天正17年(1589年 )には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は、重臣の本多忠勝 の娘・小松姫 を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた。
一説によると、井伊直政 が信幸の戦場での活躍を聞き、それを徳川家中に話した事が婚姻の経緯だと言われている。
天正18年(1590年 )の小田原征伐 では上野松井田城 攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる。文禄 3年(1594年 )11月2日には従五位 下伊豆 守に叙任される(同日、弟真田信繁 は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役 では肥前 名護屋 まで赴いている。
関ヶ原の戦い [編集 ]
秀吉死後、慶長 5年(1600年 )に失脚していた五奉行 の石田三成 が挙兵する。父(妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の信繁 (妻が大谷吉継 の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、徳川家康の養女を妻とする信幸は家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠 軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に義弟の本多忠政 と共に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
信幸は弟・信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、信繁も兄の意を汲み開城に応じた。信幸は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は上田合戦の経緯とは関係の無い、上洛を命じる使者の遅れにより関ヶ原の戦い には遅参し、本戦には参加することができなかった。
幕藩体制下 [編集 ]
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩 主となったが引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊 九度山 へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
慶長19年(1614年 )からの大坂の陣 では病気のために出陣できず、長男の信吉 と次男の信政 が代理として出陣している。元和 8年(1622年 )、信濃国松代藩 に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
明暦 元年(1656年 )、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助 が既に死去していたため、次男の信政に家督 を譲って隠居 する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利 が次男の血統(信政の六男)である幸道 の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩 として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月に死去。享年 93。
墓所は長野県長野市の大鋒寺。肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺真田山長国寺 には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫 が老中 となっている。明治には子爵(後に伯爵)家となった。
人物・逸話 [編集 ]
辞世の句 [編集
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「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」
This photo given by Koichirou Suzuki
上記写真はBG連載企画、”幸村を追走する”で上田城櫓門から松代城まで走った"Commemorative Run 上田 to 松代”の時の松代城前での記念撮影です。当日は、雨の中、遠くは栃木から参加してくれたBG仲間もいます。本当に、献身的にご協力してくださった上田&松代の観光協会スタッフ並びに地元有志方々には感謝しています。NHK大河ドラマが何時か来ますので、その時までこの記念イベントのお話しは、持ち越しに致しましょう。![]()
These two photos above given also by Koichirou Suzuki
From BRUIN Shinsyu Ueda Japan
Since 1999
Feb 26. 2013






