☆☆☆ BRUIN創業20周年記念の年の最後なので、Throwbackしてみました!BRUINの起源☆☆☆
皆さん、こんにちは、気が付けば、アッという間にBRUIN創業20周年の節目の年も今日で最終日になります。振り返ってみると、多くの出会いと沢山の新しいお客様と出会えた記憶に残る一年でした。BRUINは、今の店舗で営業を始め20年を迎えましたが、私がVintage Japanese Motorcycleに興味を持ち、米国から日本の名車を逆輸入を始めてからはかれこれ25年程になります。
随分、昔の話になりますが、高校生の頃は、当時の日本大衆文化に不満に感じていた自分は、小学生の頃からHollywood映画&米国のTV番組から入ってくる米国文化の豊かさと自由さに憧れを抱いていた自分は、どうせ一度の人生なんだからと、上田の実家を高校卒業後飛び出し、東京で色々なバイト&仕事をして貯めたお金を持ち学生ビザで、1982年9月にLos Angelesに飛びました。
親戚知人もいない、英語もまともに話せない自分は、ESL(English As Second Language)で英語を学びながらLos AngelesのJapanese Restaurantで働きながら、英語力を身に着ける事を選択しました。米国で成功し豊かな生活を夢見ていた自分は、まずは米国の大学で英語力と米国社会の仕組みを学ばないいけないと思い大学進学を視野に入れていました。 お金がなかった自分は大学進学の為に、安く進学できる為には米国住民と同じく安価で大学に行くために米国永住権を申請をしました。記憶では、当時1982年、日系人弁護士に$4000程のお金を払いましたね。無事に、申請二年後に日本人のSpecial Cookの枠で、1985年に赤坂の米国大使館でインタビューを受けて無事Green Cardを取得できました。
また、永住権のインタビューで一時帰国する前に、ホームステイ短期留学でLos AngelesのESLに英語の勉強に来ていた妻と出会い、米国永住権のインタビューで一時帰国する時に妻と一緒に帰国し、その日本滞在期間中に地元上田で結婚式を挙げ、また、Los Angelesに戻りました。
米国永住権取得後は、現地Los Angeles住民と同じ安い学費でCollegeに行ける権利を得て、当時、憧れだったUCLAに一番編入実績があったSanta Monica Collegeを選び学生をスタートしました。当時、自分はレストランでバイトをしていましたが、その間足りない生活費は、妻が当時Little Tokyoで有名だった日本人観光客相手の高級ブランドを販売していた店で働きながら私をサポートしてくれました。
その後Santa Monica CollegeでUCLA編入出来るだけの成績を残すために必死に勉強し、何とか、いい成績を残す事ができ、無事UCLAに編入する事が出来ました。 しかし、流石に、世界大学Rankingでも常に上位にRankingされるUCLAでの勉強は大変で、もともと英語力も現地の優秀な学生に比べかなり劣っていた自分は、必死で勉強しました。聞きずらいなまりのある経済学の教授のクラスでは、一番前の席に座りマイクロカセットで授業を録音し、自宅してから理解出来るまで繰り返し聴き直していました。
そのうちに、UCLAでの学生生活にも慣れ、日本人の学生仲間や中国系学生仲間もでき、そろそろUCLA学生生活にも慣れたと思っていた期間もアッと言う間で、今度は、大切な選択をしなければいけない時期になり、米国で働くか?日本に戻って働くか?米国永住権を既に持っていた自分は、当時米国企業で働く事を選択していた日本人の友人と中国系学生と就活にも参加しました。多くの経済学部の私の友人は、当時Big 8と呼ばれていた米国大手会計監査法人に目標を定めていましたが、自分は当時バブル景気で元気があった日本企業が積極的に日本人留学生を必要としていた時代だったので、日本企業が飛行機代も出してくれた時期だったので、日本での就職を考えるようになりました。
今から当時を振り返ると、あのまま米国で就職し、日系米国人となる人生に不安もあったので、悩みぬいた上、帰国し東京で就職する事にしました。それこそ、当時は既に29歳になっていた自分でも多くの日本企業から内定をもらいましたが、最終的に中堅の海外不動産事業に当時積極的だった会社に就職し、西新宿の都庁、ワシントンホテル近くに本社があった不動産会社の海外不動産事業部でサラリーマン生活をスタートしました。しかし、皆さんもご承知の通り、バブルが崩壊し、総量規制で真っ先に打撃を受けた不動産会社は存続の危機を迎え、僅か一年半のサラリーマン生活に終止符を打って、自分は信州上田の実家の稼業を手伝う事にしました。しかし、Los Angelesで8年間、東京一年半の生活を経験した自分には、田舎での生活が物足りず、英語を使うチャンスも無くなり、欲求不満を感じていた頃にバイクに興味が出てきて、唯一バイクに乗っている時が米国でバイクに乗っていた時と同じFeelingが味わえ、気分がスッキリしストレス発散が出来ました。
*当時1991年頃は、今では皆さんご存知の不動産投資信託リートのスタート時期で、私はその勉強会に行かされていた時期で、難しい法律の勉強のストレスでかなり痩せていましたね!
そのな時に、地元でHonda CB750Fourが大好きな友人ができ、古いバイクの楽しさと、当時人気が出始め市場価格も上昇していたこのJapanese Vintage MotorcyclesでBusinessをしたいと考えるようになり、米国の中古二輪誌を米国から取り寄せ、まだ、Internetが無かった時代は、日本から高い電話代を払って米国の売主に直接電話して、車両を購入し、Los Angelesの船会社まで配送を手配して、今のBusinessの原型になった逆輸入を始めました。当時は、今では300万円以上で流通している砂型CB750KOや初期型Z1が安価で簡単に入手出来た時代で、ワクワクしながら米国からRareで希少価値が高い車両が仕入れて販売する事に夢中になりました。
最初は、今は、無くなってしまいましたが、別冊MOTORCYCLISTの個人売買ページに郵便切手を同封して逆輸入したVintage Japanese Motorcyclesの写真を送って全国のマニア相手に販売していました。その後、ある程度在庫が持てるようになってから20年前のBG6月号に初広告を掲載を始めました。BRUINのInstagramをご覧になっておられる方は、二日前にアップした3分の1カラーページをご覧くださったと思いますが、その広告(下記BG広告)が最初のBG広告です!
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