2013/3/18(6年前)
☆☆☆☆KZ1000J ローレプR2カラー☆☆☆☆
皆さん、こんにちは、本日は自分が乗ろうと思い米国東部マサチューセッツ州の前オーナーから買い付けたKZ1000J R2カラーのご紹介です。そもそも私は、Eddie LawsonのAMA時代の勇姿に憧れていたのでJ系は大好きで、浜松のKUSHITANIさんで1998年に30万円近くだしてEddie Lawson Look like ツナギを作ったほどですので大のローレプ好き、BRUINのスタートは実はローソンレプリカだったのです。1990年代はまだKZ1000R1がまだ米国でも探せばあった時代で、今までに10台ほどR1も販売しました。その後球数の激減で価格高騰になり、だんだんローソンを取り扱わなくなった経緯です。最近、自分の若い頃の写真などをブログで紹介するうちに、だんだん30代後半頃ローソンでぶっ飛んでいた頃が懐かしくなり再びJ-ソンを入手する事にしました。話は変わりますが、帰国後はこのJ-ソンの車検を取り乗りますので走行距離と車検は変わりますのでご了承ください。
6000回転ぐらいからのKerkerサウンドはたまりませんね!!エンジンはオイル滲みがあったので、一回腰上をばらして組んでありますのでチェック済みで快調です。販売台数の少ない希少なKZ1000R1は乗るには気をつかうのでJ-ソンがいいですね。まだ、J系の良さを知らない方は一度は乗って見てくださいね。
残念ですが、ご覧のようにペイントに剥がれがあります。しかし、走りは最高ですよ、走行距離も大変少なく、軽くて軽快でとてもパワーフルです。久々に感動しましたね。1990年代後半はR1にFCRで高速でぶっ飛んでいましたね。あ~懐かしい!!
今月号のBGで新規3年車検コミコミ乗り出し価格
¥1,250,000の車両です。
帰国後、自分が乗りますので、またご紹介しますね。
話のついでに、究極のお宝車両をアップしますのでご覧ください。本物のS1です。若い方は、知らない人が多いと思いますが、Kawasakiが米国AMAスーパーバイクレースに参加するために限定30台だけ販売された本物レーサーです。知らない方の為にyoutubeでのEddie Lawsonの走りのリンクを張りますのでご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=EBnbYDDB9KE
エディ・ローソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エディ・ローソン | |
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1990年日本GP |
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グランプリでの経歴 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1981 (250cc), 1983 - 1992 (500cc) |
チーム | カワサキ (250cc), ヤマハ (500cc), ホンダ (500cc), カジバ (500cc) |
レース数 | 130 (250cc - 3、500cc - 127) |
チャンピオン | 500cc - 1984 , 1986 , 1988 , 1989 |
優勝回数 | 31 |
表彰台回数 | 78 |
通算獲得ポイント | 1429 |
ポールポジション 回数 | 18 |
ファステストラップ 回数 | 21 |
初グランプリ | 1981 250cc 西ドイツグランプリ (250cc) |
初勝利 | 1984 500cc 南アフリカグランプリ |
最終勝利 | 1992 500cc ハンガリーグランプリ |
最終グランプリ | 1992 500cc 南アフリカグランプリ |
エディ・ローソン(Eddie Lawson, 1958年 3月11日 - )、エディ・レイ・ローソン(Eddie Ray Lawson)はアメリカ人のロードレーサーである。WGP 500ccクラスにおいて、1984年 、1986年 、1988年 、1989年 の4度に渡りタイトルを獲得し、異なる3メーカーでの31勝を挙げた。その機械のように正確なマシンコントロールと着実なレース運びから、「ステディ・エディ」の異名を取った。
同じくアメリカンライダーのフレディ・スペンサー とはAMA 時代から激しいライバル関係であった。
目次 |
経歴 [編集 ]
少年時代 [編集 ]
1958年 3月11日 、カリフォルニア州 ロサンゼルス 近郊の都市アップランド で生また。エディの祖父はドイツ 系、母はイタリア 系、父はインディアン [1] 、妹が一人いる[2] 。子供時代は毎週家族一緒に砂漠へキャンプへ行き、砂漠では自転車や80ccのバイクで走りまわっていた。エディは、学校で昼休みに教室内を自転車でウィリー をして走って楽しんでいた。自転車に乗っているときのエディの気持ちはケニー・ロバーツ になったような気分であった。7歳からミニバイクレースに参戦。12歳のときにダートトラック にデビュー。1年後にはイタルジェット 50でレースに参戦し、一家でレースを楽しんだ[3] 。
エディはスピードボートやミッション付レーシングカート、ジェットスキーなどのような動力付きの乗り物を制御するモータースポーツを好み、アメリカで3大スポーツと言われる野球やバスケットボールなどのスポーツには関心がなかった[4] 。
AMAスーパーバイク参戦 [編集 ]
1980年 にロードレースに転向し、カワサキ と契約。AMAスーパーバイクおよびAMA250ccGPへ参戦。 米国国内選手権の成績に対する報酬として、1981年のドイツグランプリでGP250ccクラスにデビューし、続くネイションズグランプリ(イタリア)、フランスグランプリの計3戦にカワサキからワイルドカード で出場した。また、1981年 度にスーパーバイク王者になった際、記念としてカワサキからは「ローソンレプリカ」ことZ1000R が発売されている。
GP参戦 [編集 ]
1983年 、キング・ケニー のチームメイトとしてマールボロ ・ヤマハ ・チームと契約し、GP500ccクラス参戦を開始した。翌1984年 にはライバルと言われたスペンサーのタイトル防衛を阻止し、早くも初のチャンピオンの座に就いた。1986年 と1988年 にも圧倒的な強さを見せてチャンピオンを獲得。
ヤマハで3度チャンピオンになったローソンだが、1989年 にロスマンズ ・カネモト ・ホンダ ・チームに電撃移籍。ヤマハのウェイン・レイニー やホンダのトップワークスチームのワイン・ガードナー を破り、ホンダ移籍の初年度にチャンピオンとなった。シーズン前のテストで右手を負傷しアクセルやブレーキの操作に支障を来すというハンデを抱えながら、シーズン中に13個ものフレーム変更とテストをこなしシーズン序盤にポイントを稼いでいたレイニーをじわじわと追い詰め、終盤で逆転するというステディぶりを見せた。
8時間耐久レース出場 [編集 ]
1990年 に再びヤマハに移籍。シーズン序盤のアメリカGPに於いて、メカニック の整備ミスのためブレーキトラブルにより転倒し踵を骨折、年間タイトル争いから脱落。その後、年間のスケジュールに入っていなかった鈴鹿8耐 への出場を快諾し、日本のヤマハのエース平忠彦 と組んで優勝を飾った。この時怪我は完治しておらず、コースサイドからマシンに駆け寄って乗り込みスタートする8耐独特のル・マン式スタート は不可能だった為にスタートライダーは平が務めるほどの状態だったがマシンに跨ってさえしまえば闇に包まれたゴールまでその圧倒的なスピードは全く落ちなかった。
WGP引退 [編集 ]
1991年 にカジバ・チームに移籍。移籍の際には「あと2年で引退する」ことと「カジバを必ず優勝させる」ことを宣言。それまでのステディなイメージとは異なり激しく攻めるレースを見せ、マシンの開発にも尽力した。その成果は翌1992年 ハンガリーGPで、念願のチーム初優勝として現れることとなる。後任のジョン・コシンスキー はローソンが仕上げたマシンの発展型でランキング3位を獲得した。
この年限りでローソンはWGPを引退。その後はアメリカでCART (現チャンプカー )に参戦。
WGP引退後、1993年 の鈴鹿8時間耐久ロードレースにホンダから出場し2位となったが、この際チームのスポンサーがam/pm であった為、監督が「彼(ローソン)のことは苗字ではなくエディと呼んで欲しい」と発言する一幕があった[要出典 ]。1994年 の鈴鹿8耐にはヤマハから出場している。
主な戦績 [編集 ]
AMA [編集 ]
- 1979年 AMA250 ランキング3位
- 1980年 AMAスーパーバイク ランキング2位(3勝、KZ1000Mk.II )
- 1981年 AMAスーパーバイク チャンピオン(4勝、カワサキ・KZ1000 J)
- 1982年 AMAスーパーバイク チャンピオン(5勝、カワサキ・KZ1000 J/R)
- 1986年 デイトナ200 優勝(ヤマハ・FZ750 )
- 1993年 デイトナ200 優勝(バンス&ハインズ・OW01 )
- 1994年 デイトナ200 3位(ヤマハ・YZF750SP )
下記がBRUINにある、本物S1の写真です。かなり希少ですよ、日本に10台あるかなかですね。米国フロリダとドイツに新車のS1が有ると昔聴いたことがありますね。あと、サンフランシスコ近郊のKawasaki マニアが一台所有していると聞いたことも有ります。BRUINのS1が現在、世界中で唯一、購入可能なS1ですよ。もちろん価格は、信州上田の中古住宅ほどしましがね。
現状販売価格 580万円
如何ですか?本物はオーラが違うでしょ。また、BRUINからのお願いですが、今までに数百人以上の方がS1を見たくてご来店されましたが、大変恐縮ですがS1だけをご覧になる為のご来店はご遠慮ください。BRUINは少人数で忙しく作業をしていますので、気を悪くしないでください。ご協力お願いします。
From BRUIN Shinsyu Ueda Japan
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Mar 19. 2013