☆☆☆ Again,いまいちのWeekendですが、Joyfulに行きましょう!!☆☆☆
皆さん、おはようございます。今朝の上田は、Again,Cloudy Skyで日中、少しRain Showerがありそうです。早朝、7/11Coffeeを買いに出かけましたが、結構多くのバイカーを見ましたし、コンビニで集合していました。さて、Blue Skyは期待できない今日ですが、BRUINは元気に営業していますので、Vinatge Z’sをご覧にお出かけくださいね!!
2013年9月24日
☆☆☆やはり、都会は刺激的ですね☆☆☆
Joe Bruin in Shibuya.
皆さん、おはようございます。昨日はBRUINの定休日でしたので、東京に用事があったので、渡米前の1981~82年ごろ、働いていた渋谷によってきました。東京には、結構行きますが、渋谷をゆっくり散策したのは、かなり久しぶりですね。信州上田では、絶対お目にかかれない人種(今時のファショナブル、奇抜な若者)を沢山みて、刺激になりましたね。まずは、地方にお住まいで、渋谷に行ったことがない方は、珍しい光景だと思いますので写真をご覧下さいね。
109前に沢山の人が集まっていたので、行ってみるとこの光景でした。横になって、ペンキを女性に塗っている彼女が、有名なアーティストだと言う事でした。
やはり、アーティストの人の目つきは、一般人とは違いますね。私は、岡本太郎を思い出しました。”芸術は爆発だ”のCMが頭にうかびましたね。あのCMの岡本太郎の目に見えました。
109もHalloweenのでかいイメージで演出していました。BRUINブログもハロウイーンでしたね。
彼女に興味のある方は、youtubeで沢山彼女の世界が見られるそうですから、検索してみてくださいね。
”Alexa Meade”
Goobleで検索したところ下記作品が出てきましたのでご覧下さいね。
アレクサ・ミード(Alexa Meade)の写真・画像集【絵画の世界から飛び出してきた人々】
アーティストのアレクサ・ミード(Alexa Meade)さんによるアート作品の写真・画像を集めました!生身の人間に絵の具を塗って制作してあり、まるで油絵の絵画の世界から飛び出してきたように見えます!トリックアートの世界に迷い込んだような、クリエイティブな作品を見てみましょう!
トリックアートみたい!
違う角度から見ても絵に見えますね。
右の女性がアレクサ・ミードさん。綺麗な方なんですね。
この日は、Parco Part1の中で、所ジョージさんの展示会「所さんのアタマの中どーなってんの!?展」をやっていました。入場料1000円でしたが、沢山の方が入場していましたよ。その関係で、VWのBeetleが展示されていたようです。アンケートに答えると、抽選でステッカーかVWタオルがもらえましたよ。私は、青玉が出たので両方頂きました。
そういえば、わたしもVWのJetta(Black)に乗っていますね。VWのエンブレムは派手さはないですが、結構好きですね。
Parco Part1の入り口にあったショップとサービスレディーの千田さんです。ブログに載せても良いですか?と聴いたところNo Problemだと言ってくれたので、アップの写真も撮らせて貰いました。
信州上田に住んでいるおじさんには、刺激的なメイクでした。ファンタジーの世界?若い内は、something differentな事にいっぱいTryするのはいいと思います。このParco Part1の中には、かなりレアなアイテムを扱っているショップが沢山ありました。
Thank you so much,chitaさん!!
Parco Part1のエレベーターの内部です。ワンピース好きな方は、ここの6Fにショップがあるので、是非、行ってみて下さい。
Parco part1の出入り口のショップで店番をしていた粋なお兄さんで出身は群馬だと言っていました。”LHP" の松田裕介さんです。奇抜なクローズを着ていたので、話をしてきました。良かったら、パルコに行ったときは寄って下さいね。
渋谷センター街で声をかけてきた英語の下手なジャマイカ人、アパレル商品の呼び込み男でした。はじめは、昼間から、怪しいお誘いかと思いましたがね。昔に比べ、外国籍ピープル&観光客を沢山みかけましたね。
この写真が、私が、渡米目の1981~82年に働いていた「南蛮亭」という串焼きの店の現在の様子です。当時、この店の支店がLos Angelesの日本人街のウエラーコートにあり、そこを紹介してくれると言いことで、ここで働いていました。実際、そのLA支店でしばらく働かしてもらいました。ちなみに、この店が保証人になってくれ、米国永住権の申請が出来たのです。私にとっては、とても御世話になったお店です。1985年に無事米国永住権を入手出来ました。かかった費用は、当時$3500($=250円前後)ほど日系弁護士に払いました。申請中3年間ほどは帰国を出来ませんでした。現在は、グリーンカード(米国永住権)取得はかなり、大変になっているようですよ。
渋谷の丸井の隣の南蛮亭という高級串焼き店で渡米寸前までバイトをしていました。今回は当時私も仕込みをした”しそ巻き”、”アスパラ巻き”を食べてきましたよ。ちなみに、知っている人は一人もいませんでした。経営者も変わっている用でした。
それでは、連休ぼけの頭と体を、Victria's Secret Modelを見てしゃきっとさせてくださいね!!
Take it easy, slow start is better, Folks!!
From BRUIN Shinsyu Ueda Japan
Since 1999
Sep 24. 2013
★★★映画『ウルヴァリン:SAMURAI』 みました★★★
皆さん、今晩は、連休明けの火曜日はどうでしたか?BRUINは今日も、電話やお客さんが多くて、いろいろと忙しい日でした。話は変わりますが、私は、日曜日の夜、ウルヴァリンを見てきました。 私は、映画評論家ではありませので、はっきり感想を言うと、この程度の内容で、Samuraiと言う、単語を使ってほしくないですね。しかし、あくまでもこの映画は、日本での興行収入を当て込んだものではないと思いますので、日本人向けには作られていないで、しょうがないでしょうね。欧米では、日本を舞台にして、忍者、侍、ヤクザ、切腹などの日本特有の文化を紹介することで、ある程度、日本文化に興味がある人たちには受けるのでしょうかね。
正直、見終わった後、ちょっと寂しいかったですね。これは、あくまでも私の感想ですので、受け止め方は人に寄りますのでね。
今日は、BRUINにWi-Fiがはいりましたよ。NTTさんが無料でインストールしてくれました。半径30m位はOKだそうです。これからは、地方でもこのサービス網が広がるんですね。災害時や外国からの観光客にも便利なようです。
それでは、これから来月号のBG広告原稿を考えないといけない時期になりました。本当に一か月はあっという間ですね。
やはり、できる男の言葉は違いますね!!
Have a nice night, Everyone!!
From BRUIN Shinsyu Ueda Japan
Since 1999
Sep 24. 2013
それでは、明日の「真田丸」では、真田昌幸(草刈正雄さん)の高野山近くの九度山での蟄居生活を送っている時の様子がどう描かれるかに注目したいですね!また、BG企画Vintage Z'sで「幸村を追走する」の時に、BG編集部スタッフと九度山町に撮影に行ったときのPicsも後でご紹介したいと思います。
九度山に屋敷構え、蟄居生活
当時、幸村は30台の前半でした。幸村と昌幸はいったん、高野山に入りますが、すぐに九度山に移っています。九度山は高野山の入口。なぜ移ったのかはよく分かっていませんが、高野山が寒すぎたからとも、妻子を連れていたために女人禁制の高野山だと別居になるからともいわれています。
大勢の家臣を従えていたことも関係あるかもしれません。昌幸だけで付き従った家臣は16人と伝えられ、その妻子や小者も含めれば数十人の団体だったと想像できます。山上の高野山だと屋敷を構えるのが難しく、九度山になったという見方をする人もいます。
関ケ原の合戦のあと、紀伊には東軍の浅野幸長が入りました。父は豊臣秀吉の正室北政所の義弟で、五奉行筆頭だった浅野長政。関ケ原の合戦直前には、美濃(岐阜県南部)の岐阜城を攻略する手柄を立て、紀伊に国替えとなりました。徳川譜代の大名ではありませんから、九度山への移転は家康の許可を得て認めたものと推察されます。
殿様育ちで生活は困窮
蟄居生活は比較的自由に行動できたようです。幸村が大坂の陣を前に大阪城へ入城した際、九度山周辺の土豪を伴っていたことから、地元の人とも活発に交流していたことは間違いないでしょう。家臣に中で身分の高い者は、真田屋敷の隣に住まいを設け、幸村、昌幸父子を世話していたと考えられています。
しかし、生活は困窮していました。紀伊の領主浅野幸長は年間、50石ほどを支給してくれましたが、殿様暮らしが染み付いていて、それではとても足りません。信之から仕送りを受け、どうにかしのいでいたらしく、幸村や昌幸が金の無心をする手紙が残っています。
幸村が木綿を機で織った真田紐を家臣に販売させ、生活費を稼いだという話が小説などによく登場しますが、資料にはそんな記録は残っていません。江戸時代に幸村を英雄としてまつり上げるために創作された話のようです。
小説や講談に登場する昌幸は、家康打倒のため、九度山で戦略を練っていたとされていますが、これも事実とは異なる可能性が大きいと考えられます。家康の側近・本多正信に早くから恩赦の取りなしを依頼しており、下山を強く期待していました。
自堕落生活で一気に老け込む
1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きます。2年後には将軍位を嫡男の秀忠に譲り、天下を徳川家で継承していくことを世に示しました。昌幸に恨みを抱く秀忠の将軍就任で、恩赦の見込みはほとんどなくなったといえるでしょう。
昌幸は1611(慶長16)年、失意のうちに世を去ります。64歳でした。晩年は病気がちで、信之あての手紙にも自らの病状と弱気な言葉がつづられていました。最後に面会を求める手紙も出していますが、これはかないませんでした。
昌幸は江戸幕府から見て大罪人ですから、葬儀は営まれませんでした。家臣の手で火葬され、真田庵と信濃(長野県)にある真田家の菩提寺・長国寺に埋葬されたと伝えられます。小説などでは死の直前、幸村に家康打倒の策を教えたと描かれていますが、これも後世の創作と考えられています。
幸村は昌幸の死の翌年、出家して「好白」と名乗り始めます。しかし、酒に溺れる自堕落な生活を繰り返したためか、40歳を過ぎて一気に老け込みました。髪は白髪混じりとなり、歯も抜け落ちていったようです。世間に残る青年武将のイメージとは随分、ほど遠かったのかもしれません。
それでは, Wishing You All Have A Fabulous Weekend, Everyone!!
From BRUIN Ueda-City, Nagano-Pref, Japan
Since 1999
Sep 24.2016