今日はジョン・レノンの命日です。 もう44年経ちます。RIP 日本に伝わったのは12月9日かな?その1年前まで家庭の事情で俺はアメリカのケンタッキー州の田舎のモーガンフィールド高校に通っていた。
高校の悪ガキDavid,Michaelと俺の3人はお金がないのでグレイハウンドのバスに乗ってNYに行った。
三日間ダコタアパートの周りをうろうろした。当時でも職質受けてもおかしくない。YMCAの二段ベッドに一泊出来た。てか それがギリギリの経済状況だった。最終日 奇蹟的に秋の夕方ジョンとヨーコが歩いてきた。俺は髪が黒いのでYOKOから「中国人?日本人?」と優しく聞かれた。ジョンも5分くらい話してくれた。「アタラシイアルバムダスヨ」「センゲツカルイザワイッタヨ」「TOKYOデTOUKIカッタヨ」と片言の日本語と簡単に洗練された母国語でゆっくりと優しい声で話してくれた。俺が言ったのは「また日本でコンサートやって下さい」「We'll may live...」とお茶目なウインクして去って行った。YOKOが「ショーンを迎えに行かなきゃね…」と優しく笑った。サインもらっとけばよかった。色紙とペンがあれば…←アメリカに色紙があるかどうか知らんけど。とっさに着ていたTシャツに書いてもらえば一生モノの家宝だったのに…後で気づいたが後の祭り。
一年後の俺たちは例によって菊里高校の屋上でたばこを吸って夕日をぼんやり見ていた。寒いけど若いから気にならない。気分はやはりトランジスタラジオだ。←RCね
夕方撃たれたのを知って俺の悪友が次々と屋上に上がってきた。
「ジョン・レノン撃たれて死んだって…」ショックであまり覚えていないが、夜にH野君の豪邸の(名古屋大学の更に山の手)ガレージバンド付きの家に集まって徹夜で各々祈っていた。Guitarを弾いて歌っている奴もいた。その時の想いをカセットに吹き込んでいる奴もいた。もう時効だろうだから言うけど、慣れないお酒を飲んでみんなで泣いてた。翌日二日酔いで今はない高校に登る(通称 遅刻坂)角にあったミスドで生徒指導のS村先生に捕獲され…たしか数日多分停学… 結果結局母親が泣いた。
その後もずっといろんなバンドを掛け持ちしている。それにしてはギターも唄もうまくならんが …
俺の理想は上手なLVに上手くハモりながら、イカしたLead Guitarを弾くことだ。
今の高校同級生バンドのTHE HERNIANSは理想に近い。
忘年会で結成されるTAIKOH BANDはLVでこれも楽しい。ジョン・レノンのイラストの入ったハープを買った忘年会のみで使っている。忘年会もコロナでもう5年やっていないとしても…
「人類がコロナに打ち勝った証としての?」東京オリンピックも3年の話だ。
ジョン!あれから44年経ってもまだ世界は平和じゃないよ。戦争は起こっている。
今この時点で世界中で2つの戦争が起こっている。
“War is over”じゃないんだ。
下の写真はジョン・レノンタイプのサングラスとジョンモデルのブルースハープ 今も院長室に密封して飾ってある。さて今夜はジョンに祈って寝よう。今の俺は普段お酒は飲まないから献杯はできないけどね…