上杉謙信→車懸りの陣について。。。 | ラブホコンサル関羽のぼやき

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ラブホテル再生プロデューサー関羽が、ラブホ絡みの話題、その日その日に思うことを鈴なりに綴る。

誤って物を飛ばしちゃった時の、

絶対に当たってはいけない人への

命中率は異常。。。

 

 

 

 

 

皆さん、ども。

 

 

 

 

今日は、

お馴染みの、

謙信の話。

 

謙信は、

常に敵の数を下回る軍勢で戦いながら、

生涯不敗だった。

 

しかも敵は

武田信玄や北条氏康といった

名将を相手に。

 

何か彼は合戦を

楽しんでいたのではないかという節さえ感じられる。

 

それだけ、謙信は強かった。

 

で、

謙信と言えば、

車懸りの陣

が有名だよね。

 

この戦法は、

謙信とその旗本衆による本陣を中心とし、

各隊が放射状に並び風車のように回転しながら

敵に当たるというもの。
 

つまり、

最初に敵に当たった部隊が一旦退くと、

すぐ次に新手の部隊が攻撃する。

これを繰り返すことによって、

敵は常に応戦しないといけないが、

自軍は休憩を挟む部隊が出来る分有利になる。

 

もちろん、

これも軍そのものが

強くなければ出来ないことではあるけど。

 

さて、この陣形の話をすると、

当然というか、自然に

信玄との川中島の第四回目の戦いの話になる。

 

以前も書いたが、

勝敗云々よりも、

両雄天才同士の芸術的な戦は他にはないと

俺は思ってる。

 

信玄得意の、啄木鳥の戦法によって、

あわてて山を下りてくる上杉軍を殲滅せんと

待ち構えてる武田本隊の前に

 

朝もやが明ける頃、

目の前に布陣を終えた上杉軍を見て、

驚く武田軍。

 

そして、ゆっくりとスピードを上げながら、

車掛りで迫る上杉軍。

 

しかし流石信玄。

 

その陣を見て、

「あれは車懸りと言って、乱戦に持ち込んで、

最後に旗本同士の決戦へと持ち込む動きだ」

と説明し、

 

陣形ではなく戦術の名前として使ったと伝わる。

 

しかも、山本勘助に命じ、

すぐさま

その陣を包み込むように殲滅しようと、

 

鶴翼一二段の陣の下知をくだす。

 

ん~、目に浮かぶわぁ。

 

実は信玄、

まだ国主になって間がないころ、

信州攻め時に、

この戦法に出会ってる。

 

信州の豪族、

村上義清を攻めたときのこと、

 

義清は、

野戦では個人戦でしか使われていなかった鉄炮を

集団戦に使い、

 

ついで弓隊、鑓隊を用いて、

精鋭の騎馬武者勢を乱入させるという

前代未聞の戦術を使った。

 

双方の損耗を省みることなく、

敵の枢軸へ強引に押し迫り、

総大将を討ち取ってしまおうという

乱暴な作戦だった。

 

最初信玄はそれにかく乱された。

自軍は瓦解寸前だった。

 

これを見た山本勘介は、

冷静に状況を読み解いて、

対応策を提言することで、逆転した。

 

薄氷の思いだったろな。

 

なので、信玄は知ってたんだな、

謙信のその必殺の戦法を。

 

さて、川中島に戻そう。

 

この戦術には大きな欠点があった。

一度使ってしまうと、

二度目は引っかけられない奇策なのだ。

 

少なくとも信玄は、謙信との決戦を

徹底的に避けてまわった。

 

勇猛で鳴らしてきた武田軍が、

それまでにない慎重な戦いぶりで、

第一次、第二次、第三次と、

正面対決を回避してきた。

 

このため、

謙信はどうやったら晴信を

この戦術に巻き込んで、

殺害できるかを考え続け、

 

信玄は信玄で、

戦わずに勝つ方法を練り続けることになった。

 

川中島は、互いの頭脳を育てあったわけだ。

 

こうして

「眼前の戦闘」に専念する“戦術の謙信”と、

「戦わずして勝つ」という“戦略の信玄”の

戦闘指向が完成していく。

 

もちろん知恵比べだけでなく、

軍隊の制度も、工夫を重ねあっていった。

 

ここに戦国時代でも、

両雄の軍隊だけが異常発達してしまう

現象が起きることになる。

 

そして、

この4度目の戦いで、

いよいよそれが正面衝突することになったのである。

 

会戦後、

謙信は家臣に感状を複数発給したが、

信玄に至っては確かな感状 が一通も残ってない。

 

重要人物を多く失った信玄の陣中には、

上杉軍を後退させ、

勝ちのこったことを祝う余裕など

まったくなかったんだろな。

 

ただ、

上級指揮官を失ってない上杉軍も、

武田軍の比ではないが、

少なくない一般兵士を 失ってる。

 

これは謙信の

「車懸り」が、

「肉を切らせて骨を断つ」型の

戦術であったことを物語ってる。

 

上杉謙信は戦国時代の中で

国主自ら斬り込んでいく

数少ない武将であった。

 

ゆえに、この車懸りは、

敵に出会った時こそ生かせる、

戦の天才・上杉謙信ならではの

陣形じゃないのかなと思う爺でした。

 

今日はここまで。

 

じゃ、またね♪