たまには日本を命懸けで守った先人を想おうよ。。 | ラブホコンサル関羽のぼやき

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ラブホテル再生プロデューサー関羽が、ラブホ絡みの話題、その日その日に思うことを鈴なりに綴る。

オナラだと思ってしたら、ウンコ漏らした奴、ちょっとこい。

 

 

皆さん、ども。

 

 

俺は、

自身を奮い立たせたいときは

三国志の場面場面を

読むことにしてる。

 

そんで、

色んなときに

大変なときは、

先の大戦での

特攻兵や玉砕した戦闘を記した

ものを見ることにしてる。

 

大変であろうが

どうであろうが、

生きてるだけ

マシだよなと、

毎回教えてくれるから。

 

正に

そういう記事見つけた。

 

是非、紹介したい。

俺の文面だけで

目頭熱くなるとは思えないけど、

 

グッとくるよ。

 

 

この話は、

特攻の死亡率をはるかに

こえる

75%の戦死率のなか、

 

必死で、

爆撃機を守り、

敵戦闘機と渡り合った

海軍航空部隊の話。

 

時は1942年のミッドウェー海戦。

 

この敗戦により、

日米の形勢が逆転して以降、

日本軍の拠点は次々と米軍に奪われていく。

 

この猛攻をぎりぎりのところでくい止めていたのは、

その時点で残存してた、

ソロモン諸島に展開する海軍航空部隊だった。

 

戦機挽回のために

のちに

「ルンガ航空戦」

と名付けられた総攻撃では、

手痛い敗北を喫し、

多くの腕のいいベテランパイロットを失う。

この一連の戦いを担った部隊は、

のちに編成された特攻専門部隊より

はるかに多くの搭乗員が犠牲となってる。

 

一機も特攻に参加してないにもかかわらず。。。

 

さて、

問題だったのは、

ガダルカナル島を取られた後だった。

 

連合軍はここを足がかりに、

日本軍の一大拠点である

ニューブリテン島ラバウルを窺い、

さらなる攻勢を強めようとしていた。

 

そんな折、

前線視察中、

連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、

ブーゲンビル島上空で、

米戦闘機に撃墜され戦死する。

 

これ以降、

さらなる苦戦を強いられてくる。

 

一応、

ここまでが、

当時の現地航空隊の

置かれてる状況説明。

 

さてここで、

ラバウルにあった

主力飛行機について、

少しだけ説明するよ。

 

このあとの

成る程って部分出てくるんでね。

 

一式陸攻・・・大型の爆撃機

九九式艦爆・・・小型の主力爆撃機

零戦21~32型・・・主力戦闘機

 

上二つは、

当たり前だけど、速度が極端に遅い。

 

零戦ですら、この時点になると、

グラマンの最新鋭機に歯がたたなく

なってきてる。

 

ただ、

搭乗員のテクニックにより、

互角か少し下くらいのレベルだったそうな。

 

その後の

戦闘機による航空撃滅戦、

幾多の「○」作戦が

実施されていったものの、

たとえば、日本機77機に対して、

米軍機120機の戦闘機同士での空戦では、

30機(うち不確実6機)の撃墜を報告。

7機を失っている。

 

つまり、

ジリ貧になっていく。

戦う度に。

 

そして、

運命のルンガ沖空戦を迎える。

 

それは、現地日本航空戦力の

ほぼ全部を投入しての

決死の空戦だった。

 

米軍艦船及び飛行場への

艦上爆撃だった。

 

戦闘機・艦爆あわせて

93機の大編成。

 

しかし、迎え撃つ米軍は、

150機以上での待ち受け。

 

勝負は目に見えてた。

 

 

ここからは、

戦闘機隊、爆撃隊それぞれの

搭乗員の手記を貼り付けよう。

そのほうが、臨場感あるだろうからね。

 

二〇四空零戦隊の渡辺秀夫さん(当時上飛曹)は、

 

「高度5000~6000メートルから、艦爆隊の上を護衛しながら突っ込んでいくと、

敵は、艦船からも地上陣地からも、ものすごい対空砲火を撃ち上げてきました。

一分の隙間もないような弾幕です。

艦爆隊はそれには目もくれず、

ルンガ泊地の敵艦をめがけて急降下に入る。

途中で火を噴いて墜ちてゆくのも何機かありました。

そして、投弾を終えた艦爆が、安全圏まで退避したのを見届けて、

われわれ戦闘機隊は空戦場に引き返して、

敵の戦闘機を蹴散らすんです。

燃料計を見ながら、

帰れるぎりぎりの時間まで空戦をしました」

 

と回想する。

 

 

二五一空・大野竹好中尉の手記。

 

海面すれすれを這って高速避退する爆撃機、

これに襲いかかる敵戦闘機、

これを追い散らし蹴散らす味方戦闘機、

スコールのような敵砲火で真っ白に泡立つ海上で、

これらの間に凄烈なる戦闘が展開された。

艦爆危うしと見るや、救うに術なく、

身をもって敵に激突して散った戦闘機、

火を吐きつつも艦爆に寄り添って風防硝子を開き、

決別の手を振りつつ身を翻して自爆を遂げた戦闘機、

あるいは寄り添う戦闘機に感謝の手を振りつつ、

痛手に帰る望みなきを知らせて、

笑いながら海中に突っ込んでいった艦爆の操縦者。

 

泣きながら、皆、泣きながら戦っていた。

 

と。

 

 

そして、

帰還できたのは、

傷だらけの零戦6機と

傷だらけの艦爆4機。

 

惨憺たる結果だった。

 

戦争について、

良い悪いはどうでもいい。

 

おそらく、南方戦線の

陸軍も同じであろう、

 

前線の兵士は、

命令一過、

国のために命を奉げていた。

それは間違いない。

 

前述の空戦で命を散らした、

宮野善冶郎大尉の姉の話で

締めくくろう。

 

「善治郎の戦死の報せがあったとき、ふだんは気丈な母が、泣いて泣いて泣きぬれていました」

 


俺たちの日常で、

泣いて泣いて泣きぬれることって

あるだろうかね。

 

さらに、彼の手帳のなかには、

 

日本は負ける。

 

と確かに記されていたという。

 

それがわかってて、

負けを見通して、

なおかつベストを尽くして

戦わなければならなかった大尉の心中が、

痛いほど感じられないだろか。

 

一人一人に、

短いながらも人生があり、

家族があり、

それぞれの思いがあったと思う。

 

それを思うと、

それはその時代に生まれたから

致し方ない、というような

くだらん意見ではなく、

 

我々の日常の辛さなんか、

彼らの苦悩を思うと

小さいじゃないかなと、

改めて感じる爺でした。

 

終戦記念日じゃ

ないけど、

たまたまね、

この記事みたもんだからさ。

 

そゆことで、

本日はここまで。

 

じゃ、またね♪