てっきり問題なく百歳超えするものだと思っていたので、ショックよりも激しく虚脱したことを覚えています。
オレのオヤジは末っ子の甘えん坊な上に、じいちゃん譲りの遊び人だったため身持ちが悪く、必然オレは、物心つく前から祖父母に面倒を見てもらう時間が長かったのです。
バイリンガルなオレの方言が周囲よりとりわけ時代がかっているのは、地域性より多分に祖父母からの明治大正の言葉づかいの影響が濃いのかと。
そしてオレは、高2の夏にオヤジの女との折り合いが悪くなり、その流れから一人暮らしを始めた時も、実は1階には祖母が住んでいたのです。
祖母の住む家は、その昔に下宿屋も営んでいたこともあるらしく、2階にも別立てで小さな台所があったりしたので、今で言う2世帯住宅みたいな作りをしていたのです。
部屋からの階段を降りた右壁面には下駄箱があり、細長い左右に伸びる土間にぶち当たり、靴や下駄を履いて左へ行くと祖母の住む母屋の部屋とトイレがあり、右手に行くと、バス通りに面した表玄関の扉へつながる。
そんな家の2階の部屋で、16歳の半ばから高校を卒業して上京するまでの2年近くを過ごしました。
祖母は耳が遠いけど、それ以外は元気でね。
まさに矍鑠としておりました。
祖父を自宅で看取り本人が亡くなる90代半ばまで粗食ながら自炊で独居生活してて、毎朝新聞は熟読するし、音を消したテレビを見るのも好き。
会話は、オレの唇は読めるようなので、はっきりした口の形での単音での発音を心がけ、込み入った難しい話は筆談。
安いノートに鉛筆で書く筆談。
いま思うと、オレの書く筆談用の漢文の読み下し文のような明治風のカタカナ主体の漢字仮名交じり文は、かなり見た目がレトロで面白かったと思う。
言文一致し切れず、オレの頭の中の大半が戦前で止まっていたしね。
尋常小学校上がりの明治女とのコミュニケーションに、それも好都合と言えば好都合。
閑話休題。
テレビと言えば、中でも祖母の好きな番組は、定番の時代劇と高校野球とプロレス。
プロレスは南方で戦死した長男の意趣返しの側面があったようですが。それはどうなんだよ、ばあちゃんとか思ってたりしましたね。長州力が好きなのはいいけどさ…。
中でも特に春夏の甲子園は、試合があればあるだけ、ひがな一日テレビを眺めていました。
ときどき「こんだけの若いもんが仰山集ってよう頑張っとって…」などと呟きながら。
孫のような若い男の子たちの一生懸命な姿がとにかく眩しかったのでしょうね。
何か最近オレも、そんなばあちゃんの当時の気持ちが何となくわかるようになってきた気がします。
もうね。
テレビで前面に出てくる人たちが、最近みな若くてさ。
何を見ても、息子や娘を越えて、今や孫の活躍を見守る祖父母か遠方の叔父叔母の親族目線。
我ながらの涙もろさにも手が付けられない。
随所に人生が沁みる多角的な視点を得るという意味では、年を取るのもそうは悪くないのかなと…。
それと同時に、もし今の地デジ化が進んだ時代に、ばあちゃんが生きてたら、どんな反応するかにも想いを馳せたりします。
叶うことなら耳のほとんど聴こえない祖母に、そこそこ大きな地デジ画面で字幕放送を見せてやりたい。
もし、それが間に合っていたなら、時代劇にしろスポーツにしろ、きっともっと熱心に楽しんでくれてただろうな…ってね?
そんな、死んだ子の年を数えるならぬ、祖母の歳を数えるなんてことを、最近のオレは高校野球中継を見るたびやったりします。
しても詮無いのはわかっているのですが、今になって思えば、祖母の作るおにぎりと味噌汁より美味い飯は食うたことがないもんでさ。
きっと死ぬまで、オレはばあちゃん子だよ。
さあ、ばあちゃん。
今日は決勝じゃ。
勝った方にも負けた方に対しても、彼らの日々の努力とその想いに寄り添い、また一緒にもらい泣きしよう…。
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