興味の対象は成長しない?


最近ふと気づくと、頭の中で十代の頃に聴いた佐野元春の歌詞の一節がリフレインされている。


「若すぎて何だか解らなかったことが

リアルに感じてしまうこの頃さ」


それは、オレの「今ならもっとちゃんとわかって受けとめられるはず」という歳相応の感性的欲求の渇望の内なる声かもしれない気がして、今の自分の素直な読みたい気持ちだけでなく、今こそ読むべきなのかもという、よくわからない湧き上がる使命感みたいな想いも判断の俎上に上げつつチョコチョコと月に数冊レベルで古本を集めている。


先日は、添付フォトの3冊を含む5冊。


特にサリンジャーは、最近の世に溢れている村上春樹の訳ではない方が敢えて読みたくてね。


こうやって表紙を眺めるだけでも、己の若かった頃の感性の方向性とどんなものに心が揺り動かされていたのかの再確認と、自分の理解の深度のようなものと、その許容性の幅と容量などが果たして年を経て進化しているのか、他者からも透かして見られている気がしなくはなくて少し恥ずかしい。


頭の中の彼は続けて歌う。


「いつかは誰でも愛の謎が解けて一人きりじゃ

いられなくなる。


オー・ダーリン こんな気持に揺れてしまうのは

君のせいかもしれないんだぜ」


オレはすでに余生の領分に生きているけれど、それなりには正しく生きられているのだろうか? そして、若かった頃のイノセンスな感性などは、そのすべてがすでに摩滅して消え去ってしまっているのだろうか?


そんな答えのありそうもないいくつかの問いを胸に抱えたままオレは、梅雨の合間に少しだけ晴れた週末の朝、インスタントコーヒーを飲みながら、父にお願いして自分用のシャワー椅子を組み立てている。


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