揚げないメンチカツ!


今日は、早い話が昨日の話の続きです


中古マンションのユニットバスの浴槽縁と天井を突っ張る形で固定する垂直ポールを浴室に設置しました。


このことで洗い場に介護チェアを配置し、以前より簡便にシャワー浴ができるようになりましたし、将来的な自力シャワー浴の可能性も広がったのは事実なのですが、その反面でオレの心は正直なところ怯えています。


日常生活におけるマイルールや、いったん決めた自分の手順、流儀に固執してしまうのが老化の証なのはわかってはいるのですが、新しい環境で新しいことを始めるのが無性に怖いのです。そういう意味からも自分の老化を実感しています。


心の中で、今まで通りのやり方で他者に助けてもらった方が楽だし安心で安全…と、現状変更と新たな試行錯誤へ踏み出すことへの恐怖と抵抗感が自分でも思いの外、ふつふつと強く湧き上がってきます。


たとえカッコ悪くても他者に甘えたい、依存していたい。そもそもカッコ悪いなんて自尊心が要介護の障害者に必要か? そんなことすら考えてしまいます。


新たな環境でシャワー浴という生活動作をまたゼロから組み立てるプロセスは、個々の要介護者の状況も千差万別ゆえ、模範解答や公式を誰も持ち合わせておらず当然ながら教えてもらえるわけもないから、一連の動作の正解ルーチンは自分で探して見つけるしかありません。


たとえばシャワーチェアに座るまでの手順、装具脱着、脱衣のやり方とその順番。ヘルパーさんと相談しながら、いちいちすべて手探りです。


これがとてつもなく面倒くさいし、怖くて不安。


なぜなら、自分に出来ることと出来ないことは、最終的にはオレ自身が実際にその場で試してみないと誰にもわからないから。


ボディタオルなどのアイテムは動く右手の届く範囲に事前に配置しなければならないし、身体の泡を洗い流すのは、壁のシャワーフックに固定した状態でどの順番でどこまでやり、シャワーを右手に持ってからはどこをやるのか? 


自分がそれなりに客観視さえできれば造作ないそんなレベルのことを、いちいち考えてやってみてはヘルパーさんに過程と結果に問題がないか確認する。


こんな状況が、我ながら悲しいやら腹立たしいやら。


こんな事するぐらいなら、今まで通りプロに任せた方が確実だし楽だし。


そんな弱気がオレに、過去へ執着させます。


そして、誰か傍にいて、そのやり方で間違ってないよ、それでいいよと常に囁いてほしい。そんなことすら思います。


自立した生活とは、どう暮らすかの決断を下す時も、そこから生じた結果を引き受ける時も、常に一人ということ。


こんな身体になって初めて、人が寄り添い暮らすことの意味がわかった気もします。


何でもないようなことが…なんてサビの歌の本当の意味するところってね、たぶん中途障害者になってみないとわからない気がするって言い方は、また、それはそれで、障害者の健常者に対する上から目線かもしれませんけどね…。


そしてオレは、明日からも暗中摸索、七転八倒、試行錯誤しながらシャワールームで戦い続けます。


誰も頼んでないし気にかけてもいないのに、精いっぱいカッコつけながら余裕のあるフリを演じながらね。


https://psych.or.jp/publication/world100/pw06/