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雪のち流星ときどき花火

腎不全【血液透析3回/週】と脳出血による左片麻痺・心筋梗塞2回と左脚切断を抱きながら、独り身をエンジョイしていつつも、ぼちぼち寂しくなってきたアラフィフのおっさんが日々の載せたい・体調諸々と←つまり何でも良い(^_^;)を気まぐれにアップするブログです。

急性期を北里で過ごしたあと、早いもので昭和大学大学藤が丘リハビリテーション病院に転院してからの療養生活が3ヶ月をとっくにすぎてしまった。

 なんやかんや言いながらも、血液透析をしながら脳出血による左半身麻痺の身体のリハビリテーションと言う毎日にも随分慣れてきたものだ。

 けれども嫌気がさして逃げ出したくなった瞬間などは数知れない・・・

 運ばれてきた決して美味しいはずもない食事をひっくり返してしまいたい衝動も・・・なんでそんな気持ちを抑えながらも入院生活をつづけているのだろうか?

などとふと思うことが時々ある。

 やはり、腎不全以外には何もなかった元の身体に少しでも近づきたい・・・いや出来ることなら戻りたい・・・・という気持ちが微かにけれども重たく心の真ん中に浮かんでくるからだろう。

 同時にそう思った自分が車椅子の人になることにバリアを持っているような、なんとなく苦い気持ちになったりもする。

 倒れてしばらくして車椅子に乗ることを許されて有る程度自分で病棟内を自由に動き回れるようになったとき、ある種の開放感に浸っている自分がいた。 なにしろ車椅子に乗って良いという許可がでるまでにはベッドの角度すらも30度→60度→90度というちょっとずつドクターの許可が出ないと進めない道のりであったから・・・

  その時は車椅子に乗れたことがとてつもない進歩だったので嬉しくて歩くということにさほど焦点はいかなかったのだと思う。(事務所から電動車椅子借りて乗ってみたり結構はしゃいでたりした)

 しかし大変な時期を越えふと冷静になったときに初めて歩けなくなった自分に強烈に焦点が行った。歩けない!引っ越したばかりの部屋は?階段で3階だぞ・・車の運転は?できないのか・・・車、買ったばかりなのに・・・最初は単純なことから・・・日を追うに連れ細かな出来なくなったことばかりに思いを巡らす。(出来ない事じゃなくて・・・と頭の隅で思いながらもままならず)地下1階のライブハウスは?ギターは?透析中、右手は使えないんだぞ、箸まで使いこなせるようになっていた頼みの左手だったのに・・・などとだんだんと細かい日常に発想が広がって行く。こんなはずではなかった。平気な顔をしていられるはずだったのに・・・

 現実にはそんな簡単なものではなかった。何にも冷静に考えることなど出来ない時期がしばらくあったと思う。ずいぶんぐずぐずしていた日もある。転院に際しても不安の嵐であった。北里大学病院が12歳からという子供の頃から20年のつきあいで知った人も多く、慣れ親しんでいたこともあると思うが

新しい場所で新しい関係を作り上げて行くエネルギーなど無い自分な気がしてどうすればいいのかわからなかった。けれども、実際今3ヶ月という時間が経過してみるとそれなりになんとかしてきたもなだなぁと言う感想を自分自身に持つ。リハビリテーションの成果も少しは感じられるし、転院当初は飛んだりはねたり落っこちたり落ち着きの無かったまるで絶叫マシーンのような血圧もここ数日間はおとなしくなってきた。ぼちぼち外泊も出来そうだし娑婆で暮らす準備も始められそうな今日この頃である。

 なんだか、やっと目が覚めてきた・・・という今日この頃、ということであろうか???

  昭和大学リハビリテーション病院入院中の時
「当日」

 

 その日僕は北里大学病院の外来に朝から出かけた。CAPD(腹膜透析)の副作用である硬化性腹膜炎がおきるリスクが高い僕は2~3ヶ月に1度観察の意味で異常が無いか外来に行きチェックしてもらっていた。

 「その日僕は友人のお見舞いに行っていた・・・」

 その日外来での診察では特に異常なくほっとして外来を後にした。

そのあと入院中の友人の所へより、話すのも厳しい状況になっている彼のそばに15分~30分いただろうか、内心「まいったなー」と思いつつ、帰り際、

右手で彼の右手を軽く握ってみると、彼は握り返してくれた。「またくるね」と小さな声で言ってその病室を後にした。彼は僕のコンピューターの師匠でこうしてコンピューターでワープロを打ったり、メールやらインターネットやらいろいろなことが出来るようになったのは彼のおかげと言っても決して過言ではない。30歳になったばかりのころ、一人暮らしをはじめた僕はほぼ同時期に彼からコンピューターを安く譲ってもらい、セットアップからインターネットの接続まで全部お任せで、使える状態にしてもらった。

 その後はなにか解らなくなるとすぐに彼に電話していた。
そうしているうちに随分パソコンに慣れてきたのは紛れもない事実だ。 病棟を後にして、院内にある総合相談部に立ち寄り昔(十数年前)から知っているMSW(医療ソーシャルワーカー)に近況を話してから家に帰った。

 

 その夜10時前後位、ある友達と電話で他愛無い話をしているとき突然手にしていた受話器(子機)を「ボタッ!」と床に落としてしまった。
拾い直そうとしてもどうにもからだが重くて仕方ない。
それでもなんとか受話器を手に取り「 なんか俺からだの調子が変dakaratoriaezuxvyyzyz★々〆$£‰¶♭§@#∝∇∩⊃仝〇ゝ;#≧♂εδγθξω※♯@♭〆¶§‡he○|R×@????(-_;)_(._.)_(@_@)(?_?)あれっ、、俺ろれつまわってないね」
しゃべっているのだがろれつが回っていないのは自分でも解った。次の瞬間、「あれ、俺、ろれつまわってないね?」というのは少しちゃんと言えたきがする「身体むちゃくちゃおかしいよ、重い、!」と言いながら体重を量ってみようと立ち上がろうとしたが足がもつれてドタッ!と倒れてしまった。「これはただごとじゃない」とおもい「ごめん、やっぱり体調むちゃくちゃ変だから実家にでんわする」と言って一度電話を切り、実家に電話をした。

 「身体むちゃくちゃおもーい!なんか変だ来てくれ!救急車も呼んで!と何とか伝え、後はひっくり返っているしかなかった。こりゃこのまま逝っちゃうのかなぁ・・・と、思いながら。

 多分十数分も経つか経たないかで両親が来た。パニクっている僕に対してなんか一生懸命話しかけてた。 救急車の隊員が来た、

ある程度はじぶんの症状を話すことが出来たように思うが定かではない。

「とうとう、救急車乗ちゃったよ」と頭の隅っこで思っていたし、同乗していた母によるととにかくなんだかんだとよくしゃべっていたようである。

父が北里の受診していることを救急隊言っていて北里にも連絡していたようなので、救急車は一路北里大学病院へと走っていた。「ホントにぜんぜん止まらないなぁ・・・」って思っていた。横になっている僕の視線の先に

何かモニターらしき物の数字が入ってきた。89とか90とかその辺の数字だったように思う。そのころアメリカのドラマ「ER」にはまっていた僕は

あっこれってよくERの看護婦さんが叫んでいたやつな気がすると思い、「この数字ってなんですか?」と救急隊員に聴いてみた。「血液の中の酸素の量だよ」と救急隊員。「それって酸素飽和度ってやつですか?」と僕。(字幕スーパーに何度も出てきたからわりと自信があった)「よくそんなこと知ってるねぇ」と救急隊員。「ERの見すぎです。」なんていうやりとりがあったのを覚えている。そして北里に到着。

 そこからしばらくは全てうろ覚え。頭のCTを何度も撮ったこと、名前、年齢ここはどこか、

100-7は?ではじまる7を引き続ける計算。
あっ、見当識をチェックされてる!って気がしていた。そいつを何度もさせられたことを覚えている。その後2日間三途の川岸にキャンプすることになるとは流石に想像出来なかった。

 
       「船には乗らなかった」

 とにかく、何はなくとも、どーのこーの言う前に、なんてったって、

頭が痛くてそれ以外のなにもかもがそれどころじゃなかった。

脳味噌を万力で締め上げられているような感じだった。「痛い」

って言葉でかづけないでくれと「頭、痛い?」と誰かに聞かれるたびに思っていた。しかし、それでも、透析が欠かせないのは僕の宿命だ。

透析によって、脳に圧がかかると痛みが増幅するらしく、何度も何度も「ちょっと勘弁してくれよーっ!」と心の中で叫んでいた。お見舞いに来てくれた人のこと、とぎれとぎれに覚えていたりもする。やがてCTの上では出血が止まったらしく、僕が倒れた何日か後に逝ってしまった友人が「オメーはまだ乗るな!と蹴落としてくれたのか、乗船料金が足りなかったのか、ムコウの岸には渡らずにどうやらこっち側に留まることになったらしい・・情け知らずの頭痛と引き替えに・・・・
しばらく続いた超頭痛?とはっきりしない意識の中で「ヤク(頭痛薬です。念の為。)をくれーーーっ!」と一体何度思ったことだろう。

でも、実際に声に出ていたのは「うーっ!」とか「!んあーっ!」とか

良くても「アーダーマいーだぁぁいーっ!」と周りの人に聞こえてたのかなぁ・・・?

と思う。しばらくして、、少しずつではあるが自分の意識がハッキリしてきて「また命一つ拾った・・・」と思い、同時に左半身が全然動かないことに気づいた。

とにかく、死(ムコウ)へ渡る船には乗らずに済み、生(こっち)に

留まった。リハビリと透析の両立などいろいいろこれから大変そうではあるが、なかなかしぶとい己の生命力(いのち)に乾杯をしたのだった。
血栓が飛んで脳梗塞やら心筋梗塞になったりして最悪、命に関わることであること・・・

ぼくの命綱であるシャント(透析を受ける為に必要な動脈と静脈をアクセスしている部分)が

ダメになってしまうリスクを受け止めてでもオペに踏み切りたいくらいに症状は進んでしまった・・・

手根幹症候群・・・・・・

モノをよく落とすようになったし、小さなモノがつまみにくくもなってきている上に

これが最も深刻なのであるが、燃えるような痛み・伝熱線の手袋でもしているような感覚で眠れ

なかったり変な時間に起きてしまったり日常的にも支障をきたしはじめてるので

「リスクを背負うことは承知しています、それでももうオペしてください」

次回の外来ではドクターにそう言おうと思ってる。

前々回くらいの外来時にはドクターから「命がけのオペだからゆっくり考えていきましょう」

なんて言われていたけど、もう限界だ 肘や肩にも負担が来てる

右手の機能が喪われることで透析も受けられるしリスクが回避できるモノなら

ぼくはそれを選ぶかも知れない。

幾人の同病の友人・知人を見送ってきただろう?

それでもやっぱり死ぬのはまだ怖いから・・・ 
「腎不全とつきあいながら」を読んで頂いた方、ありがとうございました。
以前持っていたホームページのサイトがなくなったのでココに掲載する形にさせて頂き残そうと思い立ってさっさとやろうというノリでのことだったので、加筆・訂正もまだ粗雑なものかも知れませんがご了承ください。

とまあココまでを自分で読み返すということもあまりなかったのですが、読んでみると結構遠慮勝ちな文章だなぁと思ったりもしました。
「そこはもっとエグかったろ!」とか「そこ そんなにさらっと行けてたかよ!」と
自分突っ込みを何度もしたくなりました。でも、その時(約15~16年前)の気持ちはこうだったんだ・・・ということを大事にしたかった。随分前の文章ではありますが、新しい貴重な発見もありました。

しかしよくもまぁ ココ(46歳)まで来たものだと我ながらちょっとは感心しちゃったりしています。この後に「腎不全とつきあいながら」脳出血編 もあってのことですからなおさらです。

「腎不全とつきあいながら」脳出血編 は年内公開予定です。
           「ぼちぼちベテランか?」
腎不全とのつきあいもすでに20年を越えました。HD(血液透析)2年、移植(生体腎、ドナー母)8年、CAPD(連続携行式自己腹膜透析)11年、そしてこれからまた血液透析を始めることになりました。自分の中ではなんとなく「2周目」という感じがあります。20年前血液透析をしていたころの事を思うとかなり気が重くなったりもしていた今日この頃ではありますが、先ににCAPDから血液透析に移行している諸先輩達を見ていると「20年前とは少しは違うだろうなぁ」と思える雰囲気を感じたりもします。不安を数えればきりがないのですが、CAPDをしなくなることで出来るようになることも結構有りそうなので出来るだけそっちの方を考える様にしようと思っている今日この頃です。
 
例えば、今までのようにCAPDをしていると1日の中で次の「CAPDをどこでやるか、時間は大丈夫か」、など常に心の端っこで考えていなければなりませんでした。ところが血液透析の場合、時間的に気にすることは「何曜日の何時に病院へ行く」ということだけになり、かなり楽になるような気がします。他には、「押し入れが広くなる」・「仕事に行くときのリュックサックが軽くなる」・「1日中外で遊ぶことがしやすくなる」・「腰痛が消えるかもしれない」・「おもいきり寝坊が出来る」・「電車で旅行に行きやすくなる」などなど、考えてみたら結構ありました。後は少し時間が経過してからにはなりそうですが、CAPDカテーテル(CAPDをする為にお腹に着いている管)が抜けてしまえばお風呂に入るのに気を使うことが何もなくなることになります。
 
とはいえ、不安要素が頭の中を巡り出すととめどなくなってしまうと言うのも事実です。そんな時には身近な人たちの存在が様々な形で私のことを助けてくれます。くだらない、ただ不安な気持ちを忘れようとするための電話に付き合ってくれる人、何気なく食事に誘ってくれる人、落ち込み気味の時、くだらない冗談でぼくを笑わせてくれる人、そしてセッションで話を聞いてくれる人(ピアカンでの仲間)など、形は様々ですが周りには恵まれていると思います。また私と同じように、腎不全と付き合いながら生きている人たちの存在自体がとても心強いものでもあります。
 
 ところが、ピア・カウンセリングや自立生活プログラムを数回経験してみて感じた事があります。参加したプログラムの中(今のところ町田ヒューマンネットワークだけですが・・・)に、内部障害の人が少ないと言うことです。よく考えてみると、私自身、町田ヒューマンネットワークに勤めるようになったからピア・カウンセリングや自立生活プログラムと出会えたものの、それがなかったら未だにピア・カウンセリングにも自立生活プログラムにも出会えてなかったと思います。ですから、ピアカンやILP(自立生活プログラム)をかじりつくことの出来たこの先は透析者、ひいては内部障害者その他、難病等内部疾患を抱えている方の中へ少しでもこういうものがあることを伝えていければと思っています。そして、血液透析、腎臓移植、CAPDと腎不全とつきあいながら生きてきた経験が誰かの役にたつ事が出来れば幸いだと思います。
また、自分自身もいろいろな人の経験や情報を生きて行く上での大切なものとしてどんどん活用しながら今後も暮らして行きたいと思ってます。