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雪のち流星ときどき花火

腎不全【血液透析3回/週】と脳出血による左片麻痺・心筋梗塞2回と左脚切断を抱きながら、独り身をエンジョイしていつつも、ぼちぼち寂しくなってきたアラフィフのおっさんが日々の載せたい・体調諸々と←つまり何でも良い(^_^;)を気まぐれにアップするブログです。

       「信頼していた医師の死、そして第2期血液透析具体化」
 
血液透析に移行するという話が具体的になってきました。9月の最初に外来を受診したときに先生から、「早めに血液透析に移った方が良いでしょう」と言われました。自分の中でもCAPDの合併症として最近頭をもたげてきた腹膜硬化症(消化器系の動きがわるくなるらしい)や最近のCAPDでの1日のトータル除水量(体の中の余分な水分を取り除ける量)が減ってきていることなど、色々なことをトータルで考えるといつ言われてもその通りにしようと考えていましたので、すんなり「はい、お願いします」と言うことが出来ました。勿論、「嫌だなぁ・・・」という気持ちが少なからず有ることは否めませんが・・・。しかし、このことはある締度覚悟も予測もしていましたし、言われた瞬間にビックリするということはありませんでした。ただ、この外来で私の診察をしてくれた先生は代診の先生だったのです。何故かというと、いつも私達(CAPD患者、腎移植患者など)を診てくれていた『熊野和雄先生』という私としては約11年間ずっと診ていただいていた先生が、8月24日に突然亡くなられたからなのです。実は、今回でこの連載は終わるはずだったのですが、編集者の方より「亡くなられた先生のことを書いてみては?」との提案をいただき、更には連載を1回延ばすという配慮もいただきました。そう言う訳で今回は、故熊野先生と私の関わりやエピソードなどを書かせていただくことにしました。
 
 先生とは約11年前に腎外来で会ったのが初めてでした。小柄で、眼の大きい優しい感じの人だな、と言うのが第一印象だったでしょうか。
 その日は、小学校6年生の時に母からもらった腎臓の機能がもう透析をしなければならないくらい落ちているので、再透析導入を言われた日でした。先生はでっかい眼で私を見て「そろそろ、透析を考えなきゃいけないんだよ」と・・・そして、数日後CAPDを導入することになったのです。CAPDをする為には「カテーテル」と呼ばれるお腹の中に透析液を出したり入れたりする管を埋め込む手術をしなければなりませんでした。手術自体は大きな物ではないとのことでしたが、手術が終わった後、執刀した熊野先生が私の所へやって来て、「上手くいったよ、でも脂が多くて時間が予定よりオーバーしちゃったよ」と言われました。普通なら「何ちゅーこと言うんだ!」怒ってしまいそうな所なのでしょうが、何とも言えぬ笑顔でそう言われると怒るどころじゃなく私もつい笑って「先生そりゃないですよー」と言っていました。そんな不思議な雰囲気を持った先生だったのです。
 
 退院後は外来やCAPD友の会という患者会で先生と関わる年月を重ねて行くことになりました。
 私がCAPDを導入して3ヶ月くらいの時にCAPD友の会と言う患者会の旗揚げ箱根旅行への誘いを受け一泊旅行をしたときのことです。夕食の席でごちそうの並ぶ中たまたま先生の隣になった私は不覚にも先に先生にビールを注いでもらってしまいました。そして私が先生のグラスにビールを注ぎ、旅行参加者みんなのグラスに飲み物が行き渡ったところで乾杯!私は思わず一気にその一杯を飲み干しました。「ぷはーっ!」それを見ていた先生は「いい飲みっぷりやね」と一言。良くあるひとこまの様ですが、腎不全患者とその患者の主治医とのワンシーンであることを忘れないでください。
 
 また、数年前に再度行った箱根旅行の時は、先生は後から電車で駆けつけてくれて、夕食をみんなとともに過ごし、翌朝早くにまた電車で帰る(帰ると言っても行き先は病院)という事もありました。とても忙しいスケジュールの合間に出席してくれたのです。
 
病院のCAPD外来ではドアを開けてひょっこり顔を出し、「谷川君どーぞ!」と言う呼び方をして、診察室の中に入ると、「えーと、俊ちゃんはっと・・・どお?」と言いながらカルテを開き診察を始めると言った感じでした。そこには、診察を受けるときにありがちなアノ妙な緊張感はありませんでした。それはCAPD外来という少人数の外来であることや、長い長い時間の積み重ねが先生と患者の間にあるからだとも思いますが、先生のフランクな人柄もその大きな要素であったと私は思っています。
 
 そんな先生の葬儀には沢山の患者が参列していました。長い間病院とつき合っている人ばかりなので久しぶりに顔を合わせる人もいました。苦い顔の挨拶を何度したことでしょう。泣いている人も多く、大きな人を失ったと言う重たい雰囲気が会場を支配していました。先生達、看護婦さん達、そして患者達、それぞれが辛く悲しい表情をしていました。そんな光景を見て、周りから好かれている人だったんだなぁと改めて先生の人柄が偲ばれました。心からご冥福を祈ります。そして、新しく出会うであろう先生とまた新しい信頼関係を作って行くことに頭を切り換えようと思います。
 
 予定の連載を延長してまで個人的でわがままな文を書き連ねさせて頂き
          ありがとうございました。
   
             つづく
    「CAPDを導入して」

CAPD(連続携行式自己腹膜透析)をいよいよ導入ということになり、20歳になったばかりの11月に入院をして、管をお腹に入れる手術をしました。手術自体は簡単なもので、無事終了しました。術後の経過は大きなトラブルもなく、また、これから自分でこの透析方法をやってゆくのに必要な操作、血液検査の結果の意味、緊急時対処のマニュアルなどを勉強し、最後にはちょっとした筆記試験のようなことをして、無事卒業(退院)になりました。
 退院後は、会社での透析をどこでするかを考えなければなりませんでした。実際、退院後に病院のケースワーカーと保健婦の人との立ち会いのもとで、会社内の応接室を見てもらう形で(CAPDをするのに問題ない環境であるかどうか)訪問もありました。
 軌道に乗ってきた生活の中にも、さまざまなトラブルや出来事がありました。仕事中、遊びに行った先、そして家の中と、いくつかのエピソードがあげられます。まず成人式の日に友達と飲みにゆき、思いのほか酔っぱらって帰った夜のことでした。俗にいうところの「ごきげん」という状態(家族の証言より)で家に帰り着いた私は、かなりふらふらしていたようです。しかし、透析をしないで寝てしまうわけにも行かないことは酔っぱらいながらもわかっていて、「ダイジョーブダイジョーブ」と言いながら、何とかやっていたそうです。
 
   「会社勤めと透析」
 
 会社においてもこんな事がありました。
 会社ではお昼休みに透析を行うのですが、いつも会社の中にいるとは限りませんでした。ときには得意先(いわゆる親会社)への納品業務や会議の出席のためなど、どうしても決まった場所でできない場合が幾度かありました。それでも、車の中で昼休みをとれる場合は良いのです。透析を車の中でやってできないわけではなかったので。
 ちょっとばかり大変だったのは、会社から出荷した製品にクレームが付き、そのクレーム処理にいったときのことです。得意先に着いたのは午前11時位だったでしょうか。それからは品質管理担当の人と対面で「どーしておたくの製品は……なんでこーなっちゃうの……ぐちゃぐちゃ、あやかや・・・」と言われ続けて、そして謝り続けてという状態でした。 しかし、困ったのはお昼休みになってもそれが終わらず、お昼休みの時間帯が終わってもさらに続いてたことでした。当時は「多少の時間のズレはそんなに気にすることない」とドクターから言われてはいたものの、予定していた透析時間より随分オーバーしていて、なお話はまだ長引きそうでした。仕方がないので、得意先の人に「ちょっと、この場所で透析してもいいですか?」と尋ねてみました。
 最初は怪訝な顔をしていた相手でしたが、事情を説明すると「いいですよ」ということになり、しょうがないから透析をしながら文句を聞くかと覚悟を決め、一度車に行き透析に必要な物品を一揃え持ってきました(ちなみにそこはとてもきれいな所だったので、透析をする環境的には問題はありませんでした。)
 ところが、おもしろいもので私がお腹から管を引っぱり出し、透析液(持った感じは詰め替え用の食器洗い洗剤、内容量は2リットル)と使用するいろいろな器具を机上に出し、バッグ交換を始めると、クレームの話はどこへやら、私が始めた行為に対しての興味が芽生えたらしく、「いや実は私は腎臓が機能していなくて、そのため、この袋の中の液体をお腹の管から入れたり出したりして……」と事細かに説明してしまいました。まぁ、私としては自分の透析のことを人に話したりすることに抵抗はなかったし、クレームを聞き続けるよりはよっぽどましだと、心の底ではしめしめと思っている部分もありました。
 他にも昼休み会社で透析をミスしてしまい、突然病院に行かなくてはならなかったりもしました。(^_^;)
 という具合に、大小はともかくいろいろなトラブルを起こしつつも、大敵である腹膜炎にならずになんとか今まで過ごしてくることができました。しかし最近、腹膜の機能(透析の効率を示す検査値)が落ちてきていて、ここ一年の間くらいに血液透析に移行しなければならないようなので、昔(20年前)の血液透析のイメージしかない私は、ちょっぴり(だいぶ?)びびっているところです。 
腎不全とつきあいながら③
 
   「移植後の8年間」
 
 移植した腎臓での生活は、血液透析のときとは比べものにならないくらい体が楽でした。疲れを知らないとまではいかないまでも、そう言ってしまいたくなるくらいの違いがあったと思います。ただ、移植した腎臓の入っている所(私の場合は右腹部)を強打しないようにということは医師から言われていました。しかし、体を動かすこと、汗をかくことの気持ちよさを久しぶり(もしかしたら初めてだったかもしれない)に感じ、危険かなと思うようなことも随分やってしまったものでした。
 たとえば、高校のときの体育は一応見学をしてレポートを提出するという形をとっていたにもかかわらず、放課後の柔道場の掃除のときにマットを敷き、ジャンケンで負けた奴が一方的にプロレス技を掛けられてしまうという遊びに積極的に参加していたりもしました。ちなみに技の種類はブレンバスター、バックドロップ、パイルドライバー等でした。また、車の免許も高校の在学中に取得することができました。工業高校だったせいか、車の免許を取ることについては一応は禁止されているものの、先生たちも「黙認」という感じでした。というように移植をしたことでいろいろなことを楽しむことができました。
 しかし、よいことばかりではなく、薬の副作用などでいろいろな症状が出てきてしまったりもしました。薬は免疫抑制剤といって、移植した腎臓が拒絶反応を起こさないようにするためには不可欠な薬なので、飲まないというわけにはいきませんでした。
 私の場合は、ムーンフェイス(顔が丸くなる)、肝機能の障害、緑内障などが具体的な症状として出てきました。
 ムーンフェイスに関しては、とても顔が丸くなり、高校入学したての頃は教師に「そこのマンマルっちーの!」などとさされたりしましたが、幸い直接体がどうこうということはありませんでした。また、肝機能の方は一週間程の注射をする治療により、落ちつきました。緑内障に関しては、1日2種類、全部で6回の点眼をし続けなければなりませんでした。薬の副作用という点ではこの程度でした。あとは点眼しながらだろうが、顔がまん丸だろうが、ずっと移植した腎臓が機能し続けてくれさえすれば……と、思っていました。
 
  「『CAPD』※と出会う」
 
 しかし、現実には腎機能の数値はじわじわと悪くなってゆき、移植をして8年を経た19歳の秋に、医師よりまた透析を考えなければならない事実を伝えられました。
 この時から、「また、透析か・・・」と、もやもや、ぐずぐず、いらいらの日々が始まってしまいました。
 そんな気持ちを引きずりつつ、院内にある医療相談室を訪ねたときに、聞いたことのない言葉に出会いました。
 『CAPD』 - 当時、私の担当の医療ソーシャルワーカーがその存在を教えてくれました。どうも血液透析よりも社会生活に向いていて、食べ物や水分の制限も緩いらしいということでした。血液透析に対する印象が悪かった私は「それにする、CAPDってやつにする。」と、その存在を知ったその日のうちに決めていました。しかし、CAPDとやらに少しの明るさを感じることができたとはいえ、透析には違いないし、さわったことも、見たこともない、『CAPD』。不安は尽きませんでした。
 少しづつ腎機能が低下していってたということもあり、今すぐ透析をしなければならないというわけではありませんでした。そういう意味では小学校4年生のときになんの知識もないまま、その日のうちに透析をせざるを得なかったときとは違い、いろいろなことを考えたり、見たり聞いたりする時間的余裕はありました。
 そんなとき、「CAPDで行こうと思っているなら一度、実際にCAPDで生活している人と会ってみますか」と病院から言われました。何しろ書籍によるほんのすこしの知識しかなかったので二つ返事で「ぜひ」とその人に会わせてもらうことにしました。
 当日、腎センター内の1室でその人に会うことができました。ちょうど、CAPDをこれからやるというところで、どういうふうにやるのかも見せてくれると言ってくれました。その人は当時18歳でとても元気よく、具体的に実際の手技を見せてくれながら、大きな声で一回の透析(通常「バッグ交換」と呼んでいる)の一部始終を説明してくれました。
 実際にCAPDを目の当たりにすことができたせいか、それともCAPDというものを行いながら元気に過ごしている人を目の当たりにしたせいか、その日の帰り道、私の心の中のもやもや、ぐずぐず、いらいらはどこかに消えていました。      
※「CAPD]……連続携行式自己腹膜透析。お腹の管を通して、1日に数回、自分で透析液を出し入れする透析。

               つづく
  
   腎臓移植へ……
 
 腎臓移植手術をすることになったのは、小学校5年生から小学校6年生になろうかという頃のことでした。あとで聞いたところによると、その頃の私の体は透析をしていく上で限界に近づいているということでした。しかし、その時の私としては、そんなに大げさに考えてなかったように思います。
 腎臓移植手術をするにあたっては、私の場合、父か母からということだったので、腎臓を移植したときの相性を調べるHLA検査(血液型をA型とかB型とかよりも更に詳しく調べる血液検査)を両親と私の3人で受けました。その結果は父も母も同じくらいだということでしたが、父には仕事もあることだし、『母の腎臓をもらう』ということになりました。母は入院をして色々な検査を受け、特に大きな問題は無く、手術は現実的なものとなってきました。
 
   入院そして手術 
 
 入院の当日までは特に手術に対しての恐怖や不安を感情的に出すことも無く、普通でいる(精神的に)ことが出来ているつもりでいました。しかし、入院をしたその日にベッドの上に横になるなり、爆発的に泣きだしてしまいました。何のきっかけもなくいきなり。それも大声をあげて。周りにいた両親、看護婦さん、先生とみんなあっけにとられていたというか、困っていたというか、そんな雰囲気が私の周りにあった感じを覚えています。
 どのくらい泣きわめき続けていたのでしょうか、自分にはわかりませんが、父が私を病棟内のトイレに連れだし、「こわいか?」と私に聞き、「うん」と私が言うと、「帰ってもいいんだよ」と父は言いました。そのあと父の少し?出たおなかにしがみついてしばらく泣いていました。「帰ろうか?」と聞かれましたが、私は首を横に振っていました。
 透析をしていた病院に来ていた先生の話では、透析を続けるのも限界という事も言われていたので、[帰る]=[移植手術を受けず透析に戻る]=[死んじゃうかもしれない]と言うことは、父は勿論、私もハッキリとした思考としてかどうかは覚えていないけれど、少なくとも、体と心の片隅にそれを感じていたと思います。
 
 泣きわめき事件?のあと、どういう訳か胸につかえていた不安と恐怖のいりまじったモヤモヤがすっきりし、腹が座ったとでも言うのでしょうか、それからは移植手術へ向けて前向きな気持ちで望むことが出来ました。
 手術は無事成功しましたが、術後、肺に溜まってしまった痰が切れず、このままではまずいという先生たちの判断で再度手術室へ……肺に溜まった痰を吸い出すという治療を受けました。それも何とかクリアーし、そのあとは、かなり順調に推移していったというふうに思います。母の方はと言えば、実は腎臓をもらう側の私の倍位の長さ(おへその下から腰の真ん中【背中側】まで)を切られるという大きな傷をおっていました。ちなみに、私は13針、母は24針でした。術後しばらく頭痛に悩まされていたようですが、特に大きな問題もなく数週間で退院しました。
 
   「まるで別人のように」
 
 順調に回復していった時のことではこんなエピソードがあります。腎臓の移植手術のあと、移植した腎臓を十分に働かせるため水分を沢山摂取しなければならず、先生方の考慮で個室に居る間だけは、カルピスを飲んでも良い事になったのです。そして、私が飲んだのは、個室に居た約1か月間で実にカルピス40本でした(そのあと5~6年見向きもしなかった)。食欲の方も、透析をしていた頃とは別人のように食べはじめ、入院当初120cm、23kgだった体は、3か月後の退院時には身長はそんなにかわってないとおもいますが、体重が38kgになっていました。夏休み明けから学校にも登校したのですが、友達からは転校生に間違われる始末でした。
 おでぶにはなったもののこの後の8年間は薬を色々飲むだけで良く、ましてや体の感じは楽と言うか、透析をしている時とはくらべものにならないくらい軽く感じました。
 月に一度の外来と、2度ほど拒絶反応による短い入院はあったものの、小学校6年生から中学、高校、就職して2年目までは母親からもらった腎臓のおかげで、とても良い時期を過ごすことが出来ました。 
           
                  つづく
この文章は私が現在の職場に勤め始めた頃、職場で出しているニュースに連載させて頂いた体験談であります。
 連載も終えていくらか経った頃、職場の同意を得て自分のホームページに掲載させていただいたのですが、年月は経ちそのホームページをアップする術もなくなってしまったので、
MAC OS9の立ち上がるノートブックから現在のI MACにテキストをワードにコピーして持ってきましたモノを追々ちびちび気が向いた時に加筆・訂正等もしながらココにアップしてゆこうと思い立ちました。というわけで第1回目を載せさせて頂きます。  


腎不全とつきあいながら①   ちゃり

            「学校検尿で引っかかった」
 
 私の腎臓がおかしいのがわかったきっかけは、小学校3年生のときに行われた『学校検尿』というものでした。それまでの私は、学校から帰るや否やバットとグローブを持ち出し、近所の友達と近くの広場でボールが見えなくなるまで遊んでいる、勉強そっちのけの野球少年でした。しかし、今考えると友達たちより随分疲れるのが早かったように思います。再検尿の結果もNG。そして近くの診療所で再度の尿検査と血液検査をしてもらったところ、市民病院でもっと詳しい検査をした方がよいだろうと言われ、入院をして詳しい検査を受けました。後に両親に聞いた話では、この頃に「ゆくゆくは『血液透析』が必要になるでしょう」と医者から言われたということです。
 その後、町田市民病院から世田谷にある国立小児病院に紹介され、また検査ばかりの入院を2度して、今度は新宿の東京女子医大に紹介されました。そして、東京女子医大に行ったその日に、当時はまだ見たことも聞いたこともなかった、『血液透析』というものをやることになったのです。シャント(血液透析を行うために必要な静脈と動脈をアクセスするモノ)の手術もすぐに行われましたが、血管がちゃんと使えるようになるまでは『腹膜潅流』という透析を行いました。それは、一日置きにお腹のなかに管を入れ、そこから液を入れたり出したりするもので1回につき5時間から6時間をかけて行うものでしたが、治療の始めにお腹に管を入れるとき、これが痛いの痛くないのって……なんと表現すればよいのか、お腹のなかを手さぐりされているような感じとでも言えましょうか。恐さと痛さと気持ち悪さで、管を入れるたびに泣き叫んでいたのを覚えています。
 
  「第1期血液透析を始める」
 
 その後、2週間程でシャントが使えるようになり、血液透析に本格的に入ってゆくことになりました。その頃から自分でも気持ちが前向きになっていったのは、なんとなく覚えています。いま思うと検査、検査で自分がどうなってゆくのか全然わからない状態のときよりも、透析という具体的な治療が目に見えたということと、「透析が軌道にのったら退院出来るからね」と主治医に言われていたことが、私をそういう気持ちにさせていたと思います。また、ほんのささいな自分の行動で、そのときの自分の気持ちに気づいたように思います。それは、9階にあった私が入院していた部屋から2階の透析室に自分で行くようになったり、「水分は控えなさい」と医師に言われ、それならば普通の缶ジュースは量が多いからだめだけどヤクルトなら少ないからいいかなと思い、1階の売店に買いに行ったときだったと思います。
 その後は大きなトラブルもなく退院し、血液透析をしながらの生活に入って行きました。しばらくは、東京女子医大に通いましたが、なにせ町田から新宿までを1日おきに通うのはきついというのと、学校にもできるだけ行くために町田市内の町谷原病院に透析を受ける場所を移しました。町谷原病院では午後からスタートする透析時間を選ぶことができたので、透析をする日でも午前中は学校に行くことができました。
 透析は午後1時頃から始めていましたが、最初に太い針を2本、腕の血管に刺さないといけませんでした。その針を刺す人が、当時小学校4年生の私にとっては大問題でした。
 「★★先生はいやだ、☆☆看護婦さんがいい、☆☆さんじゃなきゃやだ」などとわがままを言い、よく透析室のスタッフを困らせていました。でもそのわがままにはきちんとした根拠がありました。いまでも鮮明に覚えていますが、★★先生の場合はとても痛いのに(痛いのはあたりまえと言えばあたりまえですが)、☆☆看護婦さんの場合は極端に痛みが弱かったのです。一度なんかは「えっ」と思うほど痛みを感じなかったことがありました。私は自分の腕に針が刺されるのを凝視するタイプでしたので、見ていて確かに刺さっているのに、本当に痛みを感じなかったときはビックリしてしまいましたし、針を刺されるのを1回しないで済んだような得をした気分にもなりました。そして、子ども心にその看護婦さんが針を刺すのを見ていて、「ていねいだなぁ」と思っていました。
 透析に入って2年がたとうかという頃、決まった曜日に来ていた北里大学病院の医師が、最初に私の両親に『生体腎臓移植』の話をし、当然、私にもその話はやってきたのです。

                つづく