先に作品の背景を言うと、中七下五の主体は作者の父親である。
背景を知ってみると、確かに「たたいて」という動作をなしうるのは父親しかありえない。
兄でも恋人でも夫でも子供に対するようなこんな仕草はしないだろう。
逆に言えば、「たたいて」という動作にこそ、作者の父親に対する感情がこもっている。

「春の山」という穏やかな季語が上五にあることから考えて、父親のそういう態度に反感を覚えたわけではないだろう。
逆に、自分が小さな子供に帰ったように一瞬感じ、父親に甘えていた頃の心がふと甦ったのに違いない。
父親の動作と言葉のみを描いたのは、そういう自分の心の動きに対する含羞からだとも言えそうだ。

一方、父親の方はどうだろうか。
どんなに昔気質の恐い父親でも、すでにいい大人である娘にこういう言動は普通とらないだろう。
軽くおどけていると解釈するのが自然。
つまり、父親の言動には父親自身の含羞も隠されているわけだ。

お互いはにかみながら二人は歩み寄ろうとしている。
昔の父と娘との関係に戻ろうとしている。
あるいは関係が甦ろうとしている。
夏でも秋でも冬でもない、枯山に緑の甦る「春」が選択された所以だろう。
とすると作品の季感は初春がいい。
「山」は父親の象徴であるとともに、二人の心の膨らみを表しているようだ。

このように解釈した上でもう一度「たたいて」に戻ると、まるでその動作が甦りの呪術的行為であるかのような印象を帯びてくる。
手というより指が鮮明に見えてくる。

作者によるとこの句は、母親が亡くなってまだ間もない頃の、実際にあった出来事をモチーフにしているそうだ。
父親は山の小高いところにすわって湖を眺めていたという。

その事実を加味して読むと、本句のキーワードである「たたいて」は、実に哀しくそして温かい。
そこには筆舌に尽くし難い、あるいは他人には測りがたい、親と子の心の綾が隠れている。
表現が一見粗野であるだけに、その綾に気づくと一層心に響いてくるものがある。

ちなみに、石田郷子の父親は俳人の石田勝彦。
石田勝彦は石田波郷門。
郷子の「郷」は師の名から一字とったのかもしれない。