「今生も」は枝垂桜の幽玄な雰囲気から導かれた言葉だろうが、同時にこの言葉によって眼前の枝垂桜は現実性を失って象徴性を帯びることになる。「しだれざくら」とひらがな表記されているのはそのためだろう。
「しだれざくら」が象徴するのは“美”の観念とするのがもっとも自然。“美”の象徴たる「しだれざくら」の「端」とはどういう心の立ち位置を表しているのか。
“下”ならば、西行の「花の下にて春死なん」のように、「しだれざくら」との一体感が表れる。“前”ならば文字通り真正面から向き合う感じ。風生の「まさをなる空よりしだれざくらかな」の、桜ひいては春そのものへの賛美と似た風韻になる。
この二つに比べると、「端」には「しだれざくら」を斜めから少し距離を置いて客観的な眼で眺めているニュアンスがある。しかし、「しだれざくらを遠くより」とした場合のような寂しさはない。「端」には、自分の立っている場所が「しだれざくら」と確実につながっている安心感・充足感のようなものがある。月並みに言えば“不即不離”の関係ということになるか。
たしかなのは、「今生も~をり」には、その関係、その生のあり方を肯定する響きがあることだ。もし否定的ならば、波郷の「今生は病む生なりき烏頭」のように、「も」ではなく「は」になるはずだ。
この「も」にはニーチェの永劫回帰を連想させるものがあるが、そこまでいくと俳句作品の鑑賞としては穿ち過ぎかもしれない。いずれにせよ、「端」の概念がはっきりしないにもかかわらずこの作品に惹かれてしまう理由が、「今生」に対する柔らかな肯定のニュアンスにあるのは間違いないだろう。