季語は罌粟。この句では雛罌粟のことでしょう。雛罌粟は別名虞美人草。中国秦時代の武将である項羽の愛人・虞の伝説を負った名前です。女性としての寂しさを詠んだこの句にふさわしい花と言えます。

 伝説では虞の墓に咲いた雛罌粟の色は赤とされています。この句でも赤い花色を想像するのが自然です。「髪」という言葉からイメージされる黒にもっとも映えるのは赤だからです。

 「女性としての寂しさを詠んだ」と先に書きましたが、この句の主題は寂しさそれ自体ではありません。寂しさから解き放たれた瞬間の微妙な心理を表現することこそが作者の主眼です。

 人体のもっとも先端であり、しかも本来もっとも感覚の鈍い箇所である「髪の先」まで寂しさを感じたというのですから、たしかに表面上叙述されているのは寂しさ極まった心理状態だけに違いありません。しかし、そのとき目にするのは罌粟が「ひらく」瞬間です。

 罌粟は開花するとき、それまで茎の先端にうなだれていた蕾をもたげます。あたかも意気消沈して頭を垂れていた人がおもむろに胸を張って笑顔を見せるかのようです。

 また、罌粟の開花期は五月。朝咲いて夕方には萎みます。そういった表現上では省略されている背景を考慮に入れて少し過剰に鑑賞すると次のようになります。

 「寂しさに悶々として眠れぬまま朝を迎え床を離れる。長い黒髪は寝乱れたままだ。カーテンを開けて庭を見やると雛罌粟の咲いているのが目に入る。腰の定まらない細長い茎と薄く繊細な花弁がかすかな風に揺れている様子は頼りなげで今の自分を見るようだ。だが、その花色である赤は五月の青空の下にあざやかに輝いており、それを見つめているうちに寂しさがまぎれ、わずかだが前向きな気分になれた」

 主題自体を大胆に省略し「罌粟ひらく」という措辞に折り込んだことが、この句の深い陰影と余情とを生んだといえるでしょう。