$とある雑誌編集者のアリャリャな日常

アメリア・アレナス著『みる かんがえる はなす』(淡交社、2001年)要約の続き。
ただし、昨日も書いたが、以下は私自身の解釈や表現も交えて書いているので、興味を持たれた方はぜひ原典を読んで欲しい。

美術作品を鑑賞するとは、自分の体験や知識、人格に照らし合わせて、作品を自分にとって意味のある象徴に置き換える作業である。
これがアレナスの定義であり、本書の内容を理解するキーポイントとなっている。
アレナスはこの定義を敷衍して、美術がもたらす喜びや衝撃もまた、鑑賞者自身が作り出したものである、と述べる。
では、芸術家はどんな役割を担っているのか? という疑問が当然湧くだろう。
この問いに直接答える代わりに、アレナスは、「芸術家と鑑賞者との間にあるギャップ」に読者の注意を向ける。
例として挙げられているのは、17世紀バロック時代のイタリアの芸術家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「四大河の泉」。

$とある雑誌編集者のアリャリャな日常
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Piazza_Navona_Vierstroemebrunnen.jpg

ローマのナヴォナ広場にあるこの彫刻作品には、キリスト教を賛美する様々な寓意が込められている。
しかし、世界中からナヴォナ広場を訪れてこの作品を目にする観光客の多くは、もはやベルニーニの寓意を理解できない。
さらにこのギャップを広げるのは、寓意を理解しているかどうかに関係なく、多くの観光客がこの作品を見て、感嘆のため息を漏らしているという事実だ。
このギャップの原因は、時間的な隔たりにあるのか?
ベルニーニの同時代人たちにとっても、現代人と事情は変わらなかったろう、とアレナスは言う。
芸術家と鑑賞者は作品というガラス窓をはさんで相対しているにもかかわらず、どこか違うところに目を向けていて、お互いの視線が出会い、絡みあうことはない。
しかし、「作品というガラス窓をはさんで相対している」のは事実なのだ。
送り手と受け手とのこの微妙で曖昧な関係は、もちろん美術固有の問題ではない。
音楽や文学といった他の芸術ジャンルにも当てはまるし、さらには私たちの日常的なコミュニケーションにおいても同様のすれ違いは常に生じていると考えていい。
しかし、これはまた別の話。
続きはまた明日。

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