印象派からナビ派まで115点の作品を展示。
画家もモネからボナールまで「オールスター集結」という感じ。
量、質ともにこれだけ充実した展覧会を、半日程度で鑑賞し、賞玩することはできない。
さいわい会期は8月16日まで。
数回にわけて見ることに。

印象派が後世にどのような影響を及ぼしていったかがわかるように、作品の展示は時系列になっている。
しかし、見てまわったのは時代的に一番後のナビ派の作品。
理由はたんに、モネやセザンヌ、ゴッホなどの作品の前にはどれも人垣ができているのに比べ、ナビ派の作品の前に立ち止まってゆっくり見ている人は少なかったから。
ナビ派の作品の人気のなさは仕方がないといえなくもない。
後世に与えた影響という点からいえば、ナビ派の芸術運動は他とくらべて見劣りする感は否めないからだ。
そもそも「ナビ派」というものを、どの程度まで運動として捉えていいかわからない。
たしかに、批評家が命名した他の運動とは異なり、「ナビ派」はグループのメンバー自らが名乗った名称だ。
グループのメンバーになんらかの共通点があったのは事実だろう。
しかし、結成当時メンバー達はまだ20歳をいくつかすぎた程度。
画家としての実績もまだない。
少なくともはじめのうちは、気心が知れた画家仲間の集まりに過ぎなかったのではないか。
若者特有の昂然とした気分から、半分冗談、半分本気に「オレたちは芸術界の預言者だ」と言っていたにすぎないのだろう。
親しく行動をともにしていれば見るもの聞くものも似通って、結果、前世代の画家から同じような影響を受けることになる。
画風も似てくる。
しかし、メンバーそれぞれが画家として成長するとともに、独自の絵を追求することになったのだろう。
そう考えると、なぜナビ派が美術史のうえでは傍流とならざるをえなかったか、その理由が納得できる。
そもそもが、あるひとつの芸術理念を実現するために集まったグループではなかったから。
逆にそのことが、メンバー間の友情を生涯続かせることにもなったのだろう。
ところで、展覧会の図録には、ナビ派の理念について、ドニの著書からの引用も交えて解説されているが、そのドニの文章を額面どおりに受け取ることはできない。
人間は年をとればとるほど若い頃を美化するものだから。ナビ派の他のメンバー自身が「ナビ派」と呼ばれるのをどう思っていたのか知りたいが、日本語に訳されたものを見つけることができない。