がんからもらった宝物 | 分け入っても分け入ってもNCIS

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子宮頸がん0期生活記と
ゆるい日常をゆるく綴っています

今日は全身に力が入らない。
数時間後には、5時間立ちっぱなしのバイトが始まるというのに。


横になりながら、石井ゆかりさんのコラムを久々に読んだ。
■2014年6月 平村さん・その3 @石井ゆかりの闇鍋インタビュー
http://www.mishimaga.com/yaminabe/020.html

日頃感じていることがずばっと書かれていて驚いた。
こうしたすぐれた文章に出会うたびに、「かなわんなぁ」と思う。



人に「話をさせる力」は、私もほしいと強く願っている。
話すことで頭の中を棚卸しして、
新しいステージへと仕切り直すことができる。
話すという行為が持つ力を、経験則で感じているからかもしれない。


昔、北海道で共同生活をしながら芝居を学んでいた頃に
同期の女の子に言われたことがあった。
「おかめちゃんと話していると毎回ね、
『あっ、私はこんなことを考えていたのか』って気づくの。
話しながら、頭の中が整頓されていくのがはっきりわかる」
とてもうれしかったし、
もしそんな力を持っているならもっと伸ばしたいと、以来ずっと思い続けている。


私も話を聞くことで
それまで知らなかったことを脳裏に書き加え、更新し、
今までとは違う目と心で世界を見ることができるようになっていく。

「このひとに出会えたからこそ、
自分の力だけでは体得できなかった見方、考え方を知ることができた」
私にとって主治医先生がまさにそんな存在で、そう感じたのは先生だけだ。
出会って2年半以上経つ今もなお、
お会いするたびに新たな学びと発見がある。


愛情に恵まれた方ではなかった私はずっと、
「求めよ、さらば与えられん」と信じて生きてきた。
しかし現実には、
求めても与えられないことの方が多かったように思う。

入院中に見た先生は
見返りを求めず、相手を選ぶこともせず、
ひたすら持っているものを毎朝毎晩、全力で惜しみなく与え続けていた。
そんな先生の姿が教えてくれた。
「与えよ、さらば与えられん」だよ、と。


自分がどんな目と心で世界を見るか。
それ次第で、感じる世界を180度変えられる。
先生と出会って、実感することができた。

感動できる心がなければ
どんなに美しい花を見ても、それは目の前にないのと同じだ。
花に気づく目と心を鍛えあげなければ、花を見ることはできない。
花を見るためには、まず自分が花を咲かせなくてはならなかった。


自分が咲いているのかは、今でもわからない。
だけど今は、少し外に出ると
すれ違うひと、一緒に働くひと、可憐な花にたくさん出会う。
花々は、出会うひとたちのやさしさとあたたかさでできている。
あまりに美しくて、うれしくて、泣きそうになる日もある。


美しいと感じられるのは、
いつか必ず別れがくることを知ってしまったからだという気がする。
私はがんになったことで、別れを意識するようになった。
それは先生との出会いとともに、がんからもらった宝物だ。

信じられないような喜びも、日常の退屈も、
次の瞬間には過去形になってしまっている。
この世のすべては、いつか必ず終わってしまう。
そう気づくと、うんざりするような家族との喧嘩すら特別になる。
いつか必ず、喧嘩できなくなってしまう日がやって来るのだ。


だからいつも、この一瞬が全力だ。出し惜しみなし。
ふとこの文章を思い出した。


  ――蜷川さんを見ていると、その瞬間をどれだけ生き切るか、
  その生きる実感ということだけのような気がします。

  蜷川  ホントそれだけですよ。それは仕事に関してもそうで、
  例えば展覧会でも雑誌で特集してくれるようなときでも、
  絶対そのときのベストなのを出すようにしています。
  とにかく出し惜しみしません。全部出しです。

  ――そうすると、その時点のもっとも高い位置から
  新しい風景を見ることができますからね。

  蜷川  超ベストだと思ってそのときやっておけば、後で後悔がないし、
  それが一番大事な気がしますね。あのときああしておけばよかったとか、
  もっとできたのにと思うのが、私は死ぬほどイヤなんですよ。
  だって、人生なんて失敗ばかりですよ。
  でもそれしかできなかったって思うところまでやっておけば、
  失敗してるけど、後悔はない。というのが精神衛生上いいみたいですね。
  できるところまでやっておく、出し惜しみなし。

    『文藝別冊総特集 蜷川実花』 (河出書房新社・2009) P72