そんなときに思い出してほしいのが「近くにある当たり前の尊さ」です(変な勧誘ではないですよ)。
例えば私の例でいうと、父親のアルコール依存症で長年悩まされていました。サイバラさんではないですが、家族にとってこの世の地獄とはこのことです。18歳。大学に入学したはいいけれども失業中の実家からは仕送りがない。まわりの同級生がうらやましく思えました。こっちは家賃支払いの月末や、半期に一度の授業料納入のために、朝はレギュラーのアルバイト、夜はダスキンの飲食店清掃、季節には百貨店の物産展で灼熱のてんぷら揚げ係。同級生で楽しく学生生活を謳歌している連中に、意味もなく「バカヤロー」と思っていました。自分の境遇に時に卑屈になり、親を恨んだりしました。
そんなとき、生活に窮する一介の学生である私に「学費困ってるんならなんとかするで」と手をさしのべてくれたバイト先社員の兄貴分Fさん。家に呼んでくれたり、焼き鳥食べさせてくれたり、今考えると信じられないくらい良くしていただきました。報いるべく、他のバイト学生の仕事を遥かに越える頑張りは、苦しかったですけど「仕事とはこうあるもの」という価値観を、社会人前に植え付けてくれました。
ひとつ上の大学の先輩Kさんは、ことあるごとに私を部屋に呼びだし、「口うるさい人だなあ」と思っていましたが、「もっと客観性持って自分をみつめなあかん。」とか、「相手に期待しすぎると自分が不幸になる。足りないくらいがちょうどいい。」とか、これも思い返すと、その辺の管理職よりも含蓄のあるアドバイスをしてくれました。
社会人になっても父親の症状は悪化の一途で、正直「もういなくなってくれればいいのに」と思っていました。しかし、最近気付いたのですが、もし、この20年以上に渡る父の常軌を逸した家族への試練がなければ、今の自分はあっただろうか。いつも、どんな苦しい場面でも、「あのくそ親父!」というパワーの矛先を向ける対象があったからこそ頑張れてきたのではないだろうか。そして、その代わりといっては大いにプラスな多くの人との出会いが、自分の境遇の背景がエッセンスとなって人格形成の素材となったのではないかと。もちろん至らぬ部分は大いにあると自覚しますが。
人間にはみんな生まれてきた意味があるはずです。そこに関係する人も何か意味がある。そこを良く考えて生きていかなくてはいけません。
断酒会の方の大いなる協力で、おととし、父は酒を完全に絶ちました。絶縁状態も本年より少しずつ解消。「なんでこの人のこどもとして生まれてきたか?」を考える夏でした。孫と遊んでいる姿をみていると、こうしてずーっとつながっているものなのだなあとしみじみしました。周りにあふれる他人をうらやんだり、人目をきにして生きるよりも、近くにある当たり前を尊く感じて大切にしながら、前を向いて生きていくのが人生だと思います。

松前公園を激走。