日本 においては、717年泰澄 和尚が開山した白山701年越中 (富山県)の国司 の息子有頼 が開山した立山 など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている[2] [3] 都良香 の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある[3] 鎌倉時代 (1185年頃 - 1333年)・室町時代 (1336年 - 1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは不明である[2]

日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代1584年 (天正12年)12月の佐々成政 による「さらさら越え」(北アルプス 越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川 )-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山 の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。

ザラ峠とは安房峠 (古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道 を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある[4]

同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄 の配下の武将山県昌景 が、1559年 (永禄2年)に飛騨 を攻めるのに上高地 から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている[3] [5]

1640年 (寛永17年)に加賀藩 によって設置され1870年 (明治3年)まで続いた黒部奥山廻役 は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプス の主峰のほとんどを登って回った[3]

文化・文政期 (1804年 - 1829年)、1819年 の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳1828年播隆 上人による槍ヶ岳 など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講などの 中登山が盛んになる。寛政期 (1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛 』(1802年 - 1822年)が人気 を博すなど、民衆 の間に旅行 人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる[2]

江戸時代文人画池大雅医者 川村錦城医学者 橘南谿画家 谷文晁 などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている[3]

江戸 幕末北アルプス 麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣 あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、 人や狩猟採鉱 などの山仕事 でたくさんの人が山に入っていたと考えられる[2]

富士山頂の登山者(富士宮口頂上)

江戸幕末以降、複数の欧米 人が富士山 に登った。1860年 (万延元年)7月、オールコック富士山村山口登山道 から登り登頂している。1867年 (慶応3年)10月にはパークス 夫人が、1868年 (明治元年)7月にサトウ が登っている[3]

明治 時代(1868年 - 1912年 )、1874年ガウランドアトキンソンサトウ の三人の外国人パーティが、ピッケル とナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山 で行った。ガウランドは1881年槍ヶ岳前穂高岳 に登山して「日本アルプス 」を命名した人物で、サトウは富士山 に最初に登った外国人としても知られる[6]

日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストンバジル・ホール・チェンバレン 、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂 の『日本風景論』が1894年 (明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある[7]

その見方では、それ以降参謀本部 陸地測量部 による1913年 (大正2年)の地図 刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎木暮理太郎小島烏水 、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治 、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った[7] 。陸地測量部は館潔彦柴崎芳太郎 などの測量官を派遣し、一等三角測量 を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検 時代と呼んでいる[3]

明治期の日本アルプスの登山では、長野県 の内野常次郎、上條嘉門次梓川 渓谷 )、小林喜作 (中房渓谷)、遠山品右衛門 (高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県宇治長次郎 、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県 の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師 が案内をした[7] [8]

日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年 (明治7年)に六甲山 における、ガウランドアトキンソンサトウ の3人の外国人パーティによるピッケル とナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い[9] 1889年 (明治22年)には、ウエストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウエストンの助言で小島烏水らが1905年 (明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会 」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司 の言うように1918年 (大正7年)の第一次世界大戦 の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。

明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年 (明治16年)に窪田畔夫と白馬岳 に登った渡辺敏は、長野高等女学校 校長 時代、理科体育 教育 の目的で、1902年 (明治35年)より毎年、戸隠山白馬岳富士山 などへの登山を実施した。富山師範学校 教諭 の保田広太郎は、1885年 (明治18年)頃より、学生 を連れて立山 などに登った。河野齢蔵1893年 (明治26年)から動植物採集 の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した[10] [11]

明治時代、測量地理学 的な目的での登山が行われた。1882年 (明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン 博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス 横断、1885年 (明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳 -薬師岳 縦走、1889年 (明治22年)大塚専一の針ノ木岳 -立山 -後立山 縦走などである[3]

陸地測量部 によって、1907年 (明治40年)までに、日本アルプス の主峰のほとんどに、三角点 が設置された[3]

探検時代の後[12] 、明治末から大正 にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め[13] 、大正期に大衆 化した[14] 1915年 (大正4年)の上高地 大正池 の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った[15]

これを受けて、1907年 (明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年 (大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年 (大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年 (大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年 (大正14年)に大沢小屋、1930年 (昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった[13]

また、1917年 (大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年 (大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年 (大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年 (大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた[13] [16]

1921年 (大正10年)の槇有恒アイガー 東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズム の時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた[17] 。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った[18]

1937年 (昭和12年)に始まる日中戦争1938年 (昭和13年)に制定される国家総動員法 などの時代情勢により、登山ブームは下火になる[19]

1945年 (昭和20年)の第二次世界大戦 終了 、大学・高校の山岳部の活動が再開された[20]

1950年代ヒマラヤ で、1950年 (昭和25年)のアンナプルナ1953年 (昭和28年)のエベレスト1956年 (昭和31年)のマナスル の初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュ[21] が続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである[22] 。この時期、1955年 (昭和30年)有名なナイロンザイル事件 が起きた[23] 。また、谷川岳 では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年 (昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例 を制定した[24] 1971年 (昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた[25] 1960年代 - 1970年代 、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキング から縦走登山、岩登り まで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった[26] [27]

1980年代 、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年 者の割合が増え始めた。若い世代 が山登りを3K というイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向百名山ブーム が輪をかけ、2010年 現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった[28] 。このブームの時代、1990年 (平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。2003年 (平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた[29] 。また2010年今日、また若者が登山に戻りつつある。[30]