私は、手術に入ったにもかかわらず、麻酔が効いていなくて、医師の声が聞こえ、意識があることに恐れおののいていた。
このまま手術されたくない・・・まだ意識あるのに。
そこで、身体の中で唯一動く左手の中指を必死に動かそうとしていた。麻酔が完全に効いていないことを知らせようと必死だった。
・・・・頼むから、気がついてくれ・・・・・
・・・・まだ、麻酔が効いてないんだよォ・・・・
そうやってもがいている私の耳に、医師の声がはっきり聞こえた。
「終わりました。」
・・・・終わった?? ど、どういうこと?・・・・
かすかな意識の底で、私は思った。
もしかして、もう6時間たってるのか?
そうなのだ。
「麻酔が入ります」という看護師の声とともに、一瞬で私は全身麻酔がかかり、意識を失ってしまったのだ。
そして気がついたときは、もう6時間たっていて、さっき聞こえた医師たちのしゃべる声は、手術が終わって、麻酔がさめかけてきたので、声が聞こえたのだった。
なんということ!!!
一瞬で麻酔がかかり、次の瞬間には、もう6時間後だったのだ。
全く不思議な体験だった。
それからの記憶はあまり定かでない。
顔をのぞき込む弟の顔をぼんやり覚えている。
・・・私の腫瘍は、どうだったんだ? やはりガンだったんだろうか?・・・
弟の声がかすかに聞こえたのを記憶している
「腫瘍が二つ見つかって、一つはガンで、
もう一つは細胞検査に出して調べるらしいよ。」
・・・・腫瘍が二つ? ガンが二つあったってことか?・・・
・・・・二つガンがあったということは、転移してる?・・・・
転移してるなら、やばいな・・・と思ったものの、意識が薄らいでいった。
それから記憶が全くない。
気がつくと、夜中の1時過ぎだった。手術は朝9時から始まったので、
もう16時間たっていることになる。
私は周りを見渡した。
心電図の波形がゆらゆら揺れている。
身体の横に大きな機械があってチカチカとランプが点滅している。
口には酸素マスクがはめられていた。
身体の横からドレーンの管がのびていて、ベッド脇のタンクに血のような真っ赤な液体がポタンポタンと落ちている。
・・・・これは・・・?
・・・重病人じゃないか?・・・・
胸腔鏡による手術で、開胸手術に比べ身体の負担が少なく、最短一週間でで退院。
そういう説明を受けていた私は、たじろいだ。
この病院は、胸腔鏡による手術が得意で、それで手術を受けたのだ。
それなのに・・・・それなのに・・・・
・・・私はいったいどうなってしまうのか??・・・
身体は、全く動かなかった。手も足も動かず、寝返りも打てない。
病室には、ときどき、けたたましく、「エリーゼのために」の音楽が流れる。ナースコールの音楽だ。結構頻繁に鳴っていた。
看護師さんたちも、忙しいんだな・・ふと、そんなことを思った。
やがて若い女性の看護師がやってきた。今晩の夜勤担当なのだろう。
「大丈夫ですか?」
「はい。なんとか。」 私は自分でも驚くほどはっきりとした声で答えた。不思議と言葉だけは出るのだった。
「足がむくみますから、手術用靴下を脱ぎましょうね。」
「はい。」
「手術の時からずっとはいている手術用靴下ですから、鬱血の原因になりますから。」
名前もわからないその看護師は、靴下を脱がしてくれた。
「足をマッサージしましょう。マッサージ器があるんです。うちの病院の売りの一つです。」
そういって、看護師は足につけられたマッサージ器のスイッチを入れた。機械の音が聞こえてきた。マッサージ器が動き出す。だが、しばらくすると、マッサージ器が足からはずれてしまった。
「あれ? はずれてしまいましたね。もう一度。」
看護師がまたマッサージ器をつけ直す。
だが、しばらくすると、また機械は足からはずれてしまった。
私は足が大きい方なので、サイズが合わないのかも知れない。
「うーん、じゃあ、手でマッサージしますね。」
そういうと看護師は、機械を足からはずし、手で足をマッサージし始めた。しかし、まだ麻酔が効いているらしいのか、足には感覚があまりない。それでも、看護師はマッサージを続けた。
「それじゃあ、次に口を湿らせますね。」
手術直後の患者は、水を飲むことができない。それでのどが渇いてしようがないのだ。
看護師は、ストローのようなものの先にスポンジのついた専用の道具で、スポンジを湿らせ、渇いた喉の奥を、湿らせてくれた。
喉の湿りが、本当に生き返るようで、生きているありがたさを感じた。手術するとこんな状態になるのか、と改めて驚くと同時に、看護師さんが、まるで天使のように思えた。
「少しは楽になりましたか?」
「はい、ありがと!。楽になりました。」
「よかったです。」
看護師はにっこりほほえんだ。その笑顔は病室に咲く可憐な花のようだった。
「学校の先生なんですか?」
いきなりそう訊ねられて、私はびっくりした。
「そうですよ。」
「中学校の先生なんですね。」
「そう。」
「卒業式、泣きました?」
いきなりまた、そんなことを訊ねられて、またまたびっくりした。私は三年担任で卒業式を終え、式の翌日入院したのだ。卒業式の感動は、まだ深く残っていた。
「卒業式を終えて翌日入院し、手術したんだよ。もうベテランなので、若い頃のように泣くことはないけど、卒業式のあと、教室で卒業証書を渡すときに、クラス全員が合唱を歌ってくれて、その感動は、いまでも忘れられない。一生の宝だと思っているよ。」
「へえ・・・そうなんですか。」
看護師は、ちょっと微笑んだ。
私が送り出したスポーツ万能でちょっと勉強嫌いな男子たちや、すこし突っ張ったやんちゃな生徒たちやダンスの好きな女子生徒たちが、たくさん見舞いに押し掛けて、病棟に入れずに、うれしい悲鳴を上げたのは、また別の日の話。

「では、ゆっくり休んでくださいね。」
そういうと看護師は行ってしまった。後にはさわやかな感謝が残った。
だが、それからの時間、全く眠ることができなかった。
なにしろ生まれて初めての手術で、体も心も知らず知らず興奮状態にあるのだろう。
なにしろ、時間のたつのが遅かった。
2時・・・3時・・・
まだ朝にならないかな?
4時・・・・5時・・・・
やがて、空が白くなってくる。結局、一晩中眠ることができなかった。
こうして、手術後1日目が終わった。