降誕祭<クリスマス> | おこめん家(ち) ~ままよてんぽのかわ~

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「てんぽのかわ」は風に吹かれる草のことらしいです
飛ばされるしかないのね…草だし

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今回の話題は、「クリスマス(降誕祭)」。
 
ACIMで語るイエスは、「クリスマス」が自分の”誕生祝い”であることを理解している様子です。
 
(クリスマス)は、私のこの世界への降誕を祝うという時節だ。
しかしあなたは、私の降誕をどのように祝うのか知らない。
聖霊に教えてもらいなさい。
そして(聖霊に教えられた)あなたが聖霊を通して(再びこの世界に)誕生するのを、私に祝わせてほしい。
 
This is the season when you would celebrate my birth into the world. Yet you know not how to do it. Let the Holy Spirit teach you, and let me celebrate your birth through Him.
 
テキスト15章Ⅹ1:5-7
日本語訳は筆者
言葉を補っています
(太字は原文)
 
 
「どのようにして私の誕生を祝うのかを知らない」
それは、私たちが、イエスが誕生した意味を理解していないから
 
でもその理由を、当のイエス本人はよく理解しているみたい。(☆)
 
☆(テキスト15章Ⅹ~
 
しかし、彼の誕生を祝うのに熱心なはずの私たちはというと…
 
彼とその理由を共有していません。
そこからして、”わかってない”。
 
で、「どのようにして私の誕生を祝うのかを知らない」状態になる。
 
わかってない?
じゃあ…
 

 

「聖霊に教えてもらいなさい」

 

 
 
あのね、われわれは多忙なんですよ。
年の瀬で忙しいの。
毎度そこで、「聖霊に教えてもらえ」って言われても…
しょんぼりDASH!
 
結論から言えば、私たちがACIMに関してほしいと思う答えは、ほぼすべてACIMに文字として書かれています。
 
だから、そんなときはACIMを参照すれば大丈夫。
たいがい全部、書いてあります。
 
「聖霊、教えて!!」と念じてインスピレーションを待つより、その場でできるから早い。
本を開くだけなんで。
本
 
今回の答えもまた、きちんとACIMに書かれています。
 
まずは、どうすればイエスの降誕を祝うことができるのか。
 
誰に対しても犠牲を強要しないことで、私たちはともにつながり平安を祝おう。
そのようにして祝うとき、あなたは、私があなたに与えた愛を私に与えてくれるのだ。
 
Let us join in celebrating peace by demanding no sacrifice of anyone, for so you offer me the love I offer you.
 
同上Ⅺ8:2
日本語訳は筆者
言葉を補っています
 
 
「誰に対しても犠牲を要求しない」。
それが彼の誕生を祝う方法のようです。
 
…そんなの、当たり前でしょ。
「犠牲」なんて最初から求めてないよ。図々しい。
えーもやもや
 
そうツッコミたくなるかも。
 
ACIMが言うこの「犠牲」という概念は、少々難解かもしれません。
こればかりは、「概念そのものが複雑」というのが率直な感想です。
 
自我の複雑性がいかんなく発揮されておりましょう…って感じ。
 
さらにわれわれにとって、すでに、この「犠牲」はあまりに当然なものと化しています。
従って違和感を感じにくい。
 
知的に理解したうえで、それに気づく敏感さを養う訓練が必要かもしれません。
 
流れ星
クリスマスツリー
 
ともかく、いまはせっかくのクリスマス。
犠牲を求めず、イエスの心とつながり合って、一緒に平安を祝ってみたいもの。
 
ものすごーく単純に言えば、「相手に対して犠牲を求めない」とは

 

 
相手に期待しない
 
相手が自分の願望を叶え、満たしてくれるのを求めない
ことかと思います。
 
イエスによると、私たちが他者に要求する「犠牲」の根本的原理はひとつしかない。
犠牲をよこせとしつこくこだわる「理由」は、ひとつしかないのです。
 
この「ひとつの理由」について、ACIMはさまざまな角度から言葉を尽くして語ります。
それは私たちが、「ひとつの理由」を様々に分裂、分化したものとして認識しているからでしょう。
ここにも自我の複雑さが垣間見えます。
(今回は、この複雑さには触れません。)
 
しかし、そうした自我の複雑さを瞬時に吹き飛ばす強力なメッセージを携えて、我らがベツレヘムのみどりごはこの世界に降誕しました。
 
融合(ひとつであること)という贈り物こそ、私がそれだけを与えるために生まれたものだ。
 
The gift of union is the only gift that I was born to give.
 
同上Ⅹ3:4
 

平安を司る王子(☆)は、

 

「体をコミュニケーションに必須の手段と見なしさえしなければ、

たとえ体が破壊されても、コミュニケーションは断たれることなく続く」

 

そう教えることによって、愛における条件を再度はっきりさせるために生まれた。

 

The Prince of Peace was born to re-establish the condition of love by teaching that communication remains unbroken even if the body is destroyed, provided that you see not the body as the necessary means of communication.

 

テキスト15章Ⅸ7:2

 

いずれも日本語訳は筆者

(言葉を補っています)

 
☆神を「王」、神のひとり子であるイエスを「王子」と呼びならわすのはキリスト教の伝統です。
イエス自身ここでは自分を「平安の王子(The Prince of Peace)」と呼んでいますが、
王から権威を授かったことが焦点ではなく、私たちに平安をもたらすのが主旨だろうと思います。
 
 
上の引用文にある「融合」や「(つながり合う心における)コミュニケーション」。
 
こうしたものは抽象であり、自我の思考体系のように具体的かつ知的に理解することはできないかもしれません。
 
本質的にそれは、実践の結果としての体験によって「知る」ものであり、「智識」なのです。
 
ともかく、これがナザレのイエスがこの世界に降誕した「目的」のようです。
 
私たちが彼のこの目的につながる(同意して分かち合う、共有する)重要性は、ACIMのイエス自身が一貫して語り続けるとおりです。
 
さて、しかしいまの私たちには、まず学ぶことがある。
 

 

誰にも犠牲を要求しない

 

 
これを実践しようとすると、はじめはむしろ、自分が犠牲を強いていることに気づいて驚くかもしれません。
 
しかし、それが実践者を強力に「赦し」へと導いてくれるでしょう。
 
 
流れ星
クリスマスツリー
 
たとえば相手に「違和感」や「不信感」を覚えたとします。
要するに不快感です。
 
そのときは、相手に対してなにかの期待があるとみて間違いないでしょう。
つまり、相手の犠牲を求めている。
 
もしそれが「コミュニケーション」という面ならば、

 

私を理解してほしい。
 
あるいは、私が理解できるような
“コミュニケーション”をしてほしい。

 

 
そのような「願望」を、当たり前のように相手に対してもっているかもしれません。
 
そして、仮にそれを指摘されたとしても、シレっとこう答える…
 

デレデレ笑い

これは私の
ささやかな「願い」っていうだけの
ことですよ。
 
「犠牲」が欲しいわけじゃありません。
 
だって、理解し合うのは、
人として当然でしょ?
 

 

 
しかしこういうときー相手に違和感、不快感を抱いているような場合、「理解しあうのは当然」といった一見自然な希望が
 

 

 
あなたが私を理解するのは当然
 
あなたには、私に理解させる義務がある
(しかも、なるべく完璧に!)

 

 
相手の「犠牲」に基づく利己的な内容に書き換えられているのです。
 
この書き換え後の自己中心的な信念が、当人の心に根付いています。
 
ここでの目的は、「互いに理解し合う」ことではありません。
あなたが私を理解させること。
あなたが私を満足させることが目的です。
 
これは私だけの目的です。
あなたには関係ない。
あなたは私の目的を満たすために、私に仕えればいいのです。
犠牲を払って、私を満足させればそれでいい。…
 
少々露骨に書きすぎたでしょうか。
こうしてみると、ちょっとぎょっとしますね。
絶望ガーン
 
実は、こうした「ひそかな欲望」―相手に犠牲を強いる欲望が、私たちの心には潜んでいるものなのです。
 
まずはそれに気づき、そしてこの信念からの解放を願う。
それが「犠牲を求めない」実践になると思います。
 
誕生日帽子ジンジャーブレッドマン
 
「犠牲を強いない」実践をつねに心がけるなら、私たちはイエスの「融合」のメッセージを受け入れる決断に導かれてゆくでしょう。
 
そして、その決断が私たちをさらに「平安」へと導いてくれるのは、自然なことに思えます。
 
このとき、まさに私たちは、ともに祝っているのです。
 
私たちは、イエスがこの世界に降誕したことを、その意味をはっきりと理解したうえで祝います。
そしてイエスは、私たちが聖霊を通して「再び」この世界に生まれ直したことを祝ってくれるのです。
 
どうぞよいクリスマスを!