高知へ来て先ず、全国龍馬社中 会長である橋本邦健氏をはじめとする現代の志士にお会いし、土佐のお龍さん達が歓迎会をして下さり♪

清流 仁淀川の名護屋沈下橋の景色に魅せられ

高知懸護国神社で龍馬が使っていたとされる木刀を拝見したり

坂本家墓地へ行ったり



4日後には、OTOGI のお二方が高知へ来てまる2日ご一緒させていただき







ボクが、高知に来れたのは、OTOGI の長崎出身 河村泉兵衛さん(左側の方)のお陰なんですm(__)m


右側の金子裕則さんとは同郷です。二人の高知での活躍(高知県観光特使なんです!)のお陰もあってボクの龍馬魂への夢への後押しとなりました♪


その②へ続くぅ~♪
お久しぶりに更新します!

実は、先月2月25日より高知県へ移住しまして2週間が過ぎたところです♪

何で移住?
それは、20年来の坂本龍馬ファンでして
一昨年、昨年と高知へ来るうちに歴史や人の豊かな心に触れ、
「こりゃ観光客で滞在したぐらいじゃ物足りん!」
と思い、龍馬の聖地である高知へ移り住み龍馬を中心とした歴史を学ぶだけじゃなく
『伝える』事をしたい!

っと強く思い、龍馬さんが縁で入った龍馬会で龍馬さんが作ってくれた縁で高知の龍馬会の方にお世話になってます。

お金も無く、身寄りも無い私を快く受け入れて下さり不自由無く生活させて貰ってます。
今、現在は龍馬関連の就職先を探しており何とか一ヶ所面接にこぎつけた所です。

そんなこんなで高知へ来て仕事が決まるまで高知を知り、高知に学ぶ事を日々の生活としています。


最近、【釣り】をテーマに書いてなかったので!

3月9日に行われた
フィッシングショーin四国



へ行き、エギングの憧れの方やバスフィッシングのトッププロの方々と写真を撮って来ましたのでアップします!

エギングの憧れ、ヤマラッピこと
山田ヒロヒトさん♪

たまちゃんこと野村珠弥さん♪\(^-^)/

霞ヶ浦の鬼
赤羽修弥さん!

JB TOP 50 2013年間優勝
北 大祐さん!

ジャッカルプロスタッフ
片岡壮士さん!高知出身です!

釣りビジョン『磯を駆ける』でお馴染み
平和卓也さん!

そうそうたるメンバーです!

高知は、歴史や文化や食もたくさんでバスフィッシングの盛んな土地なんで近いうちに釣りに行きたいと思います!

まずは、職だぁ~♪
岩熊井堰と用水路改修に尽くした偉人
(延岡市下三輪町・貝の畑町)

延岡市の平野部の場合、
過去100年間、水不足によって、イネなどの農作物が大きな打撃を受けたことはほとんどない。それは井堰(いせき)と井堰の水を分配する網の目のように張り巡らされた用水 路のおかげである。 県北の井堰というと、五ケ瀬川の延岡市下三輪町岩熊と 貝の畑町の間をせき止めた県内最大の「岩熊井堰」がよく知られている。




牧野延岡藩の家老・藤江監物と郡奉 行・江尻喜多右衛門の手によって
享保19年(1734)に完成した。
当時は、木造井堰であった。

延岡藩の牧野氏時代、当時の出北村は、土地が高いため水田に乏しく、畑や荒地がほとんどでした。ここに 水を引くことは農民の願いでした。享保九年(1724)家老の藤江監物(けんもつ)が井堰と用水路の工事 を郡奉行の江尻喜多右衛門に命じて、井堰つくりの工事が始まりました。はじめは順調に進んでいたものの、 五ケ瀬川の水をせき止めると言う困難な作業のうえに、台風や洪水によって堰が流され、工事のやり直しがたび重なりました。そのために費用もかかり、お金もそこをつき、井堰を造る為に働いていた農民や、けが人や、病人が増え工事も進まなくなりました。

さらに1734年、藤江監物がこの仕事に反対する役人たちに思いもよらぬ罪を着せられて、三人の息子と共に捕らえられ、監物と長男は日之影町舟の尾の獄中で息を引き取りました。監物の意思を引き継いだ江尻は、こうした中、中止論も出る中で、死をかけて工事を続行し、よう やく着工以来十年目の1734年、完成しました。




荒地だった出北地区は美田となり、古城や新小路、下出口などの用水路沿線もその恩恵を受け、新たに131ヘクタールの水田が開かれた。 277年後の今、岩熊井堰の水は南北の各用水路によって 南方地区の吉野、天下、小峰、松山、古川、野地、野 田、大貫方面へと運ばれ、一方、恒富・伊形地区は出 北、惣領、浜砂、別府、浜、平原、沖田、三輪、小野、 塩浜、石田、伊形方面へと水路が延びている。 

大正から昭和にかけて岩熊井堰と既存用水路改修、維 持・管理に心血を注いだ人物がいた。旧南方村の村長で あり県議でもあった甲斐奎太郎翁と、旧恒富村長・日吉 幾治翁、同・門馬豊次翁、それに伊東常太郎翁、山本七郎翁らだった。

明治以降、藩の手を離れた岩熊井堰をはじめ大瀬川の須 輪間、百間、野田、大貫の各井堰と、恒富村や伊形村、 南方村の用水路が荒廃、水量が減ってきた。これを憂 い、大正8年(1919)、まず日吉幾治氏が各水系を岩熊井堰に一本化する構想を打ち出した。 日吉氏は、伊東常太郎氏と山本七郎氏に命じて、先進地の筑後川の井堰を視察させ、井堰と水路の詳細な研究を 行った。日吉氏の後を受け継いだ門馬氏は大正13年 (1924)、岩熊井堰と用水路の大改修計画を立てた。 

一方、大正12年(1923)、南方村長に就任した甲斐奎太郎氏は、早期に井堰と用水路の改修が必要と判断、県政に訴えるため県議となった。さらに県予算通過をはかるために、所属していた憲政会を離党して政友会に入るなど、所属党員から恨まれるのを覚悟で予算確保に全力をあげた。

これが効を奏して昭和3年(1928)9月に井堰と水路改修の予算が認められ、同年12月に起工式が行われた。 

昭和8年(1933)12月10日、実に5年の歳月をかけた岩熊井堰(全長262メートル)改修と南北幹線用水路改修の大工事が完成。工事には、多くの村民が協力した。 その間の昭和5年4月、延岡町・岡富村・恒富村が合併して新しい延岡町になり、8年2月11日に市制を施行、 延岡市となった。 

昭和23年(1948)、南方村民は天下町に甲斐奎太郎翁の銅像を建て




、その功績を称えた。南方村が延岡市と合併したのは、その7年後の30年(1955)4月。 




山本七郎翁は、出会う人にコンペイトウをあげていたことから「コンペイトウ爺さん」として慕われ、恒富地区の用水路の維持・管理に半生をささげた。昭和26年 (1951)延岡市文化功労賞、35年(1960)には県文化賞が贈られた。 

日吉幾治翁は、新生の延岡町長も務めた人。恒富村長時 代、机にはいつも泥のついたワラジとカンテラが下がっていて、夜間も用水路の点検を怠らなかった。愛宕神社下に立像がある。









現在、岩熊井堰と関係用水路は延岡市土地改良区(染矢 敏則理事長)が維持・管理にあたっており、水路延長は 幹線・支線合わせて約30キロ、延岡平野の約450ヘク タールを潤している。 今、延岡平野の農家が水に困らず、安心して田植えがで き、収穫されたコメを市民がありがたくいただけるのは、こうした先賢たちの血のにじむような努力があったからである。





Android携帯からの投稿
我が町、舞野町は、行縢(むかばき)山の麓です。




そんな行縢山には、行縢神社があります。






かつて、日本武尊が熊襲退治のおり、馬具のむかばきに似てると言った事からむかばきと名付けられました。

そんな行縢神社近くには、延岡藩最後の藩主である内藤政挙公が次世代の教育の為に設立した延岡亮天社出身で神社社司を務めた甲斐長蔵氏顕彰碑






鎮西八郎為朝(源為朝)が武運祈願の為この神社を訪れた際、腰掛けたとされる岩





などあります。


むかばき 
【行 = 縢/行 = 騰】
遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛(ふはく)や毛皮の類。中世の武士は騎馬遠行の際の必需 品とし、シカの皮を正式として腰から 足先までを覆う長いものを着用した。現在も流鏑馬(やぶさめ)の装束に使用。






源 為朝
(みなもとの ためとも、旧字体:爲 朝)



は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。

弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。
保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、伊豆 大島へ流される。
しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、
追討を受け自害した。
切腹の史上最初の例といわれる。 

源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者 の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる伝説がある。


【行縢山伝説】
延岡市の西端に、ひときわ目立つ2つの岩山がある。東を雌岳(809メートル)、西を雄岳 (830メートル)という。この2つの岩山から成るのが行縢山である。
今から2千万年以上も前、新生代の地質時代に、花こう岩の山塊が盛り上がって大崩山が生まれ、その南側に生じた亀裂に、花こう岩脈が噴き出して行縢山ができたと言われている。その険しい2つの岩峰の間に滝がある。今にも落ちてきそうな絶壁の山容は、威厳に満ちて人を寄せ付けない雰囲気を感じさせる。 日本書紀によると、第12代景行天皇は、西に熊襲(くまそ)を討ち、東に蝦夷(えぞ)を平定して、大和朝廷の勢力を広げた英雄である。これに対し、古事記では全く趣が異なり、統一期の事跡は日本武尊(ヤマトタケルノミコト) の物語となっている。 ところで、景行天皇が熊襲を討つためにヤマトタケルを今の九州に当たる筑紫に派遣した。 そのころ、行縢山にカワカミタケルという勢力 のある者がいて、人々から多くの貢ぎ物を取り上げて暮らしていた。
ヤマトタケルは、討伐のため、船を今の延岡市の東海の港に乗り入れた。すでに日が暮れかけていたが、ミコトの意思が通じ、日はしばらく西の山の端にかかって沈まなかった。ミコトはこの山が馬に乗るときの防具・縢(はき)の 形に似ていることから、行縢山と名付けたという。
ミコトは勇気を得て、

行縢の近くの舞野村というところまで来た。(ミコトが勝利の舞を舞った野添から舞野町となったという伝説があり、舞野神社には、舞を舞った際に使用した扇を祀った扇塚がある。)




そこの野添というところに居を置いて、7日の間とどまり、カワカミタケルを討つ策を練った。 このとき、雄岳と雌岳の間の滝が落ちるくぼみが、矢筈(やはず)の形になっているので、矢筈と名付けた。また、水の落ちる姿が白布を引くように見えるので、布引きの滝と呼んだと伝えている。

ミコトはやがて美少女に姿を変えて、カワカミタケルの館に入り、酒宴の中でタケルの油断 を誘い、討ち果たすことができた。ミコトは大 事を成し遂げて豊後国(大分)に帰った。人々はミコトが居を置いたところを武宮と呼ぶようになった。日本書紀のヤマトタケルの物語が、 地名伝説となって残っている。
養老2(718)年の創建と伝えられる行縢神社は、熊野権現を勧請(かんじょう)したと言 い、イザナキ、イザナミ、ヤマトタケルなどの神々を祭っている。



Android携帯からの投稿



佐川 官兵衛
(さがわ かんべえ)
天保2年9月5日(1831年10月10日)~明治10年(1877年)3月18日)は、幕末から明治時代の武士
(会津藩士)、警察官。諱は勝、直清。

NHK大河ドラマ【八重の桜】では、
中村獅童が演じた。



今回、その鬼官兵衛を偲びに南阿蘇まで出掛けた。
白水村には、【鬼官兵衛記念館】がある。





文久2年(1862年)には藩主・松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。武勇に秀で、薩長から
「鬼の官兵衛」
「鬼佐川」
と恐れられた。

幕末期

慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣したが、 戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のち家老に進んだ。
会津戦争では、8月29日に精鋭約1,000を率いて城外出撃の指揮官を任じられたが、出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した(長命寺の戦い)。だが、9月5日の材木町(住吉河原)の戦いでは、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保した。戦後は藩 主や家老、若年寄とともに東京で謹慎した。

明治期

旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住した。廃藩後は警視庁に出仕し、一等大警部に任命された。明 治10年(1877年)の西南戦争では豊後口第 二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍 し、熊本県阿蘇郡において被弾を原因として 戦死した。
享年47。
【佐川官兵衛討死之地】









墓は大分縣護國神社。

西南戦争で進駐した南阿蘇では官兵衛は官軍の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたと言う。
【佐川隊本陣付近】


南阿蘇には十数カ所の佐川官兵衛慰霊碑が存在する。
【西南の役公園】





戊辰戦争で朝敵とされた会津の汚名を晴らすべく、官軍として官兵衛は、遠い阿蘇の地でもののふ、会津武士として華々しく散ったのである。


Android携帯からの投稿