土佐では、坂本龍馬をはじめとする多くの幕末志士達が贈位を与えられ今もなお、顕彰され続けている中、悲運の最期を遂げたがために今もなお、ひっそりと山中に墓だけがありその悲運故に墓への献花が絶えない人物がいる。





そう、『人斬り以蔵』である。




本ブログでも、何度か取り上げ登場している人物だが資料に乏しく、人斬りのイメージだけが定着し、記念館は勿論、誕生地に石碑すら無いのだ。

2014年3月17日
ボクは、師に連れられとある龍馬研究で有名な居酒屋へ向かい大将と龍馬の話、龍馬を取り巻く様々な人物の話をする中で…

以蔵の最期の話になり、以蔵が捕らえられていた牢獄は山田獄舎という所で以蔵が生まれた実家から江ノ口川を挟んで目の前にあり、拷問を受ける以蔵の悲鳴が鳴り響き実家の両親まで届いていたという。

土佐勤王党党首 武市半平太は、以蔵と同じ日に切腹。武士としての最後であり、贈位・顕彰され慰霊祭が毎年盛大に行われており、反して以蔵は打ち首、獄門、斬首、死体の一部は3日程、雁切橋に晒されたという。

しかし、彼の残した辞世の句はこうだ。


君がため
尽くす心は水の泡
消えにし後は澄み渡る空

とても、学に乏しく野蛮で人を斬る事しか脳の無い人物が読める句では無い。

むしろ、気品すら感じ教養もあったのではと思います。

思うに、師への義に尽くし信じて自らを修羅と化し頑固で不器用で純粋な男だった性格が故に災いした最期だったのかもしれません。

しかし、剣の腕は凄まじく、剣に力を注ぐあまり、心が付いていかなかったのかもしれない。

とも思います。

信じていた人や仲間に裏切られた以蔵。

誰よりも優しく、不器用で孤独だったのだろう。

誰しも抱える孤独や闇。
そんな部分に共感する人々は、全国から以蔵の墓を訪れ献花が絶えない。

その日、師と私は決めた。
以蔵の慰霊祭をしよう!!

その日から10日後
私は、2013年10月以来、2度目となる以蔵の墓参りをした。

そこは、高知市薊野(あぞうの)北真宗寺(しんしゅうじやま)山内にある。
墓には辞世の句碑が建てられ地域住民有志による整備が繰り返され、人が足を踏み入れれない状態から案内板や順路に沿って行けるようにされている。





ボクに出来る事は、無いか…

そうだ、人斬り以蔵でなく以蔵の義に尽くす心やきちんとした以蔵の歴史を墓へ訪れた人々に伝えたい!!


以蔵の歴史を知って貰う為、パンフレットを作ろう!!

そう決意した。


そして、師は墓を保存、管理、史跡巡りコースへ活動している方に連絡を取った。
NHKのバラエティー番組
『突撃アットホーム』で芸人のバイきんぐが街角でロケをし、とある女性にインタビューしていると…

父が、愛媛県松山市の道後温泉の骨董屋さんで1000円で買った坂本龍馬が書いたとされる手紙があるという。

早速、お宅へ訪問したバイきんぐ。

その手紙は、なんとちゃぶ台の下にぞんざいに扱われていた。

父は、本物だと信じ介護施設へ…

父の目利きが本当なのか知りたいと鑑定する事に。

先ずは、高知県立坂本龍馬記念館にて学芸員と書家による鑑定で、龍馬の書き方のクセや筆跡からほぼ確信。

続いて、龍馬自筆の新政府綱領八策をはじめとする多くの龍馬自筆を所蔵する山口県長府博物館にて、自筆と照らし合わせ全く違いの無いことを確認。

最終関門は、京都国立博物館にて、龍馬資料の第一人者、企画室長 宮川禎一氏登場!!氏のお墨付きなら間違い無く本物。

内容は、大政奉還後の新政府樹立へ向けて財政難な政府の財政を考えるには、三岡八郎(のちの由利公正)しかいないと土佐藩参政 後藤象二郎宛ての手紙。福井 越前藩を訪れ、三岡八郎と面会。しかしその時藩主、松平春嶽公と面会したと今までの歴史でしたが、春嶽公には面会出来なかったとそれを覆す内容まで書かれていた。


草稿つまり、下書きだから龍馬の本音まで書かれており歴史的価値は今までの歴史書簡の中でトップクラス!!


しかも外側の箱には、どうやら木戸孝允が龍馬の形見として所持していたのでは!?とも…


この歴史的大発見に
「手紙が世に出たがっていたのではないか。」持ち主の娘の秦さんは、語った。

ボクは、鳥肌を通り越して涙が溢れていた。













さて、今日3月24日は何の日??
どんげな日??

152年前の今日、坂本龍馬は坂本家の守護を祀る高知市神田の和霊神社へ立ち寄り、月の灯りと水杯で決意を固め土佐を後にし、脱藩しました。

そして、昨日・一昨日と坂本龍馬脱藩祭、前夜祭、打ち上げと参加させていただきました。

龍馬の生まれた町の小学校
第四(だいし)小学校の子供達が上町よさこい踊りを披露したり、


和霊神社近くの神田小学校の子供達が中心となり、

祝詞口上の後、将来への脱藩(決意表明)の誓いを述べて水杯を飲み



たいまつを持ち和霊神社を降りる脱藩の儀式を体感しました!!





神田から高知へ!
高知から日本・世界へ!

子供達にもしっかりと龍馬精神が受け継がれてます。

OTOGIライブも大盛況♪







そんな脱藩祭の前夜祭では、大会実行委員とOTOGIのお二人を含む7人で真っ暗な和霊神社へ上りOTOGIが歌を奉納する儀式が3年連続で行われており歌っているOTOGIを写真に納めていたら…


後々、OTOGIの金子裕則さんがボクの撮影した写真を観て

「うわぁ~!えぇ~っ!」

「ちょっ…ちょっ…これ…」

っと気付いたんですが、歌うOTOGIのお二人の間に写らないはずの人が!!(゚Д゚;)

まずは、引きの写真。
(この時点では、金子さんしか気付きませんでした。)

赤丸の中の柱に注目!!

河村泉兵衛さんのギターのヘッド部の斜め左辺りです!

泉兵衛さんの方を向いて龍馬さんらしき人が歯を出して笑ってません??


わかりました??

他にも写ってました…

でも、決して怖い感じは無く

「おまんらぁ、ようきたねぇ」
っと…
「ワシの歌かえ?聞かいてくれや!」
っと…ボクには感じます。o(^-^)o


今回で30回目の伝統あるこの和霊神社脱藩祭が未来永劫、子供達の将来を決意を表明する神聖な祭りと繋がって龍馬さんに追いつけ!追い越せ!と、龍馬イズムを継承していって欲しいですね!

前記事フィッシングショーの後、坂本龍馬の原点である龍馬の先祖の眠る南国市才谷村へ行きました♪

『坂本龍馬先塋之地』
先榮(せんえい)とは、先祖の墓という意味。

ここ才谷村は、龍馬の初代坂本家 坂本太郎五郎さん

二代 坂本彦三郎さん

三代 坂本太郎左衛門さん

が眠る地で、この後の代から今、坂本龍馬生誕地の近く上町に移り、
『才谷屋』と屋号を称し、質屋などを営む土佐でも指折りの豪商となり、郷士株を買い郷士坂本家に至るまでの原点となる地なんです。

坂本家となるまでは、大濱姓を名乗っていたらしく、郷士になってから坂本家になったとされています。

龍馬は、数々の手紙を残してますが、この才谷屋の発祥『才谷』姓や『大濱』姓を使った数々の変名で手紙を出してます。


中でも才谷梅太郎は、ここ才谷の梅、先代の太郎を使っています。








龍馬の原点の地は、まだ梅の咲く長閑な地で今もなお古い墓が守られている歴史深い村でした。
OTOGI さんのうめ祭ゲストライブ、夜はオーベルジュ土佐山でのロビーコンサート♪




OTOGI さんの『偉人伝心魂の唄』っという延岡の偉人達を歌った唄があるんですが、この唄ただのご当地ソングじゃありません!

延岡出身の青年が延岡を出て県外で暮らし、彼女が出来、自分の生まれ故郷の話を彼女に話して聞かせるんです。
そして、その彼女が「行ってみたい!」っと言い「来週、一緒に帰ろうか、そして一緒に住もうよ!」って言うラブソングでもあるんです♪

ボクは、色々な思いと色々な決断と様々な希望と様々な夢を果たす為、愛するが故、故郷に両親を残しここ高知に来ました。
地域を活性させたい!地域愛があるが故の決断で、でも自分の夢を今、行動しないと一度きりの人生を無駄にしてしまう!とも思い、1年間は、葛藤の日々でした。

そんな思いから、故郷の唄を聴くと涙が溢れて止まりませんでした。(T△T)

高知の地で延岡の唄を歌うOTOGI の唄を聴きながら泣いているボクは、高知の人から異様だったでしょうね(^_^;)


そんなこんなで、OTOGI さんが嵐の様に去ってから、佐川町にある青山(せいざん)文庫へ行きました。

ここ佐川町は、幕末の志士達を後生に伝えるため、中岡慎太郎の陸援隊の隊士であった田中光顕が、自らが収集した資料を生まれ故郷の青山文庫に寄付をし、坂本龍馬はじめ、武市半平太、中岡慎太郎などの資料を所蔵しています。

また、司牡丹酒造の蔵もあり、白壁のお酒の匂いが町に漂い、




植物学者 牧野富太郎博士を生んだ


志士とお酒、文教の町なんです。


田中光顕さんと牧野博士の墓参りをしました。



そして、田中光顕含む佐川の志士 五士が脱藩の際集合した地へ



この土佐の地では、様々な志士達が明日の日本を考え決断、行動を起こし新しい日本の為、奔走していったのです。


その③へ続く\(^o^)/