散歩コースは道沿いである。交差点では乱暴にスピードを上げたまま走る車も多い。
そんな状況で彼女は2度ほど急カーブをしてくる車に向かって、というか、
車が来ない方向へ行ったのだが、車の方が急旋回してウサギの方へ
向かってくることになったのである。
僕は身を呈して車を止めた。
車の下敷きなどに絶対させはしない。
運転手は怪訝な顔をし何か言っていたが、ともあれウサギは人間界の野蛮さ
から逃れることが出来た。
この記事で書きたかったことはこの出来事ではない。
中島らもはユーモアたっぷりで僕はすっかり愛読者である。
だが、この「とほほのほ」にあるウサギの記述は間違っている。
氏は既に亡くなってしまっている。亡き者の書いた内容について
難癖をつけるのもいかがなものかということであるが、反論出来ない
状況にある者に対し物をいうことはフェアではないかもしれない。
だが、これはなんとしてでも言い返しておかねばウサギという種に対して
品位、品格、その存在のすべてを傷つけることであると思うのだ。
僕は氏のファンであるということを前提に、しかし、それでも以下の
内容は間違っており、氏はウサギを真摯に可愛がったことがない、
触れあうことが出来なかったのだと言わざるを得ない。
「とほほのほ」にあるウサギについての記述は次の通りとなっている。
148ページ14行目から抜粋(単古本)
「ところでいろいろと動物を飼ってみると分かるが、やはり頭の悪いやつはだめである。
可愛くない。ウサギや小鳥などは見た目にはオモチャのようで可愛いが、育てているとあの頭の悪さにウンザリしてくる。頭が悪いということはつまり本能のままだということで本能のままだということはつまり、『残酷』だということである。ことに鳥類のもつ残酷さには、ヒッチコックの「鳥」を見るまでもなく、どこか僕らの胸を悪くさせるものがある。やはり本当に可愛いのは犬。猫以上の知能があるものに限る。要はいかに「人間の機微」を解するか、にかかっているのであって、犬くらいになるとその辺の高慢ちきな人間なんかよりは、はるかに実のあるやつがいたりする」
最後の部分でも分かるのであるが、冗談半分であることには理解を示そう。
だが、すべてのウサギの名誉のために私が代弁する。ウサギは代弁するということは決してできないからである。
ウサギは真に愛情を注いでくれた人間にのみ、その本当の姿を見せてくれるのである。
野蛮さや面白半分、オモチャとしてしか見ていないような輩には逃避以外の行動をとることは無い。そして最後には自分で自らの体に中に備え持っている毒を出し、死んでしまうのである。
さて、ウサギの代弁であるが、それはウサギを心から思ってくれた人なら必ず感じとることの出来る全てである。なにものにも語ることは出来ない、断片すら記すことの出来ないあらゆる出来事である。
答えはウサギとの暮らしのまさにその中にこそある。
文学であれ、音楽や芸術の中になどであれ、それはとてもではないが描ききることは出来はしない。
まやかしではない、人と動物という生き物が命を燃やし、この壮絶な世界で
暮らし息づいているというその生の事実そのものなのである。
そこは何者にも入り込むことのできはしない、
取り繕う必要の無い特別な領域なのだ。
その特別な親密さで満たされた場所が出現するかどうか、
その世界を感じ取ることが出来るかどうかは
人を選ぶ出来事なのである。
親密で特別な世界は、醸成されてゆくものである。
分からない人には踏み入れることの出来ない
存在に気づくことすら無い世界なのである。