これは忘れられない事故、忘れてはならない事故だ。この時期になると鮮明に思い出す光景がある。
1985年8月12日の夕刻、私が9カ月の長男を実家に連れて行った帰りのことだった。長男を抱き、西に向かって歩いていた。自宅はもうすぐそこだ。
「まずは急いでお風呂に入れなければ。今日も暑い日だったな」
すると今まで見たこともないような高さ(低さ?)で南から北へ向かって遠くの空を飛行機が飛んで行った。巾50センチほどのテレビ画面で小さなおもちゃの飛行機が水平に移動した感じだった。ほんの数秒のことだった。建物や木々に遮られ、それはあっという間に視界から消えた。
そんなものは、見たことがなかった。飛行機の高度、方向、夕日の中のシルエットが不気味な感じがした。6時半を回った頃だった。なんだかぞわぞわした。我が家の位置から見て南から北に飛行しているって、どこへ向かうのだろう?羽田空港の位置をなんとなく頭に描いた。
長男をお風呂に入れている時、夫が帰宅した。「ただいま」も言わずにお風呂の戸をガラッとあけて大きな声で言った。
「なんだか、JALのジャンボ機が羽田から大阪に向かっていたけど、行方不明らしいぞ」
すかさず私は
「そういえばね、さっきね、西の空で低く飛んでいる飛行機を見たんだよね。左から右だから、南から北の方に飛んで行った。でも大阪行きの飛行機が、そんなところ通らないもんね。まさかね。でもあまりの低さにびっくりしたよ」
と応えていた。その時はそれほどの大惨事になるなんて思いもしなかった。小さい子どもを抱えている家庭の夜は早い。さっさと眠りについた。
翌朝のテレビのニュースで驚いた。その飛行機は群馬県御巣鷹の尾根に墜落した、と。その地点さえ最初は錯綜していたが、情報は少しずつ流れ始め、結果520名もの方が犠牲となった。生存者も数名いらした。
「これはすごい奇跡……でもこの先、色々な思いを抱えて生きていくことになるのだろう」
それからしばらくして、私は朝日新聞の読者の投稿欄『ひととき』を目にした。それはある少女のものだった。あの墜落した日航機に友人の弟くんが乗っていたようだ。健くんだったかな?(今現在では、ほとんどのことがインターネットで調べられると思うが、ここは敢えてそうせずに私の記憶だけを頼りに書かせてもらうことにする)
彼は夏休みに大好きな甲子園を観戦しようと1人で祖父母の家に向かったようだ。小学校中学年だったと記憶している。投稿した少女の妹さんは同じ年だが、まだまだぬいぐるみを抱える幼さがある一方、健くんは歴史にも詳しく、しっかりしていたと。それだってあの飛行機の中でどれだけ「おとうさん!おかあさん!助けて」と叫んだことだろうと。一人ぼっちでどれほど怖かったろうと。そして最後に友人である健くんのお姉さんへの気持ちを伝え、締めくくっていた。
亡くなられた方々の中には著名な方もいらっしゃったし、大企業のトップの方もいらっしゃったようだ。命の重さは一緒。この時期は戦争のこともあり、命の尊さを考える。健くんも生きていたら50歳くらいになっている。どんなことができたろう?どんなことを考えたろう?どんな風に生きていただろう?
私の見たあの飛行機がそうだとは言えない。なんの確証も無く、幻だったのかもと思うこともある。一方で年を経るごとにあの光景が自分の中でどんどんと勝手に膨らんでいっていることも確かだ。遠くに見えた鳥くらいのものが大きなジャンボ機になる。周りの夕焼けが薄いオレンジから、濃い真っ赤な色になる。少し見上げて目にしたシルエットが、真正面に見える。周りの建物や木々や山が消えて飛行機だけが目にうつる。それがそのまま、520人の方が普通に過ごせたであろう40年の重さ、長さ、厚みと比例しているようだ。
私はそれほど飛行機を利用することはないが、窓際の席に座った時は必ず整備士さんに手を振っている。
「ありがとうございます。これからも安全のためによろしくお願いします」
の気持ちを込めている。
整備士さんたちは手を振った後に深々と頭を下げる。あの惨事を2度と起こさない、と誓っているに違いない。
健くん、今、何が1番楽しいですか……。
