東京都内と言ってもこのあたりはまだまだ自然が多い。周りを見渡せば、畑がたくさんあるし、鳥の鳴き声も聞こえる。冬場の晴れた日には富士山も見える。

 

 純子の祖父が『子リス幼稚園』をこのH市に創設したのは昭和半ばのことだ。経営者として条件を満たせば、当時それは可能だったらしい。祖父は幼稚園教諭や保育士の資格も持っていなかったが、地元の名士で長年教育に携わってきた方に声をかけ、園長の依頼をしたと聞いている。

 

 その頃、地域にはそれほど多くの子どもはいなかった。こじんまりと、ひと学年ひとクラスで開園された。年少・年中・年長の3学年だった。敷地はそれなりの広さを持っていたので、園舎は小さいものの、庭は広く、鳥やウサギも飼っていた。春にはタケノコ堀り、夏にはジャガイモ、秋にはサツマイモを収穫し、と自然と触れ合うことのできる幼稚園として人気を集めた。

 

 純子の母、政子は体育大学を卒業し、父とお見合い結婚をしたが、幼稚園教諭の免許を持っていなかったため、資格の取れる大学に編入したと聞いている。努力の母だ。純子を出産する前に大学に通い、20歳前後の若者に混じって様々な実技授業もこなした。卒業し、無事に試験に合格して、幼稚園で経験を積んだ。そのため母が純子を出産したのは、当時には珍しく30を過ぎた頃だった。

 

 その後の幼稚園業務が大変だったのか、子どもに恵まれなかったのかは純子の知るところではない。

「妹か弟がほしいなぁ」

「いつか赤ちゃんが来るといいねぇ」

そんな話を父の浩一としたのは純子がいくつの時だったか?

 

 純子は 一人っ子として大切に育てられた。もちろん、ここ、子リス幼稚園に通った。祖父は男の孫も望んでいたと思うが、くも膜下出血で72歳であっけなくこの世を去った。

 

 その後、母が園長として子リス幼稚園を引き継いだ。純子が卒園して間もなくのことだった。今でも純子はその時の気持ちを忘れてはいない。

「パパが園長先生になればいいのに」

父より母が偉いみたいに感じられて嫌だった。父にその資格がないこと、幼い純子にはわからなかった。

 

 父が取り組んできたことは子どもの純子にとって大したことではないと思われた。畑の土を耕し、「子ども農園」の看板を作って立てる。子ども達と共に飼っている動物の世話をする。庭に咲く花を花瓶に生けて各室内に飾る。夏まつりの準備では仕掛け花火も用意した。運動会の前日にはテントを設営したり、旗を飾ったりした。クリスマスにはサンタクロースに扮した。

 

 パパが外でお仕事をし、ママがお家で子どもたちのお世話をするというお友だちのお家が純子には羨ましかった。 学校から戻ったときにママに

「おかえりなさ~い」

って言って欲しかった。

 

 今では思う。その母の功績がどれほどの努力の上に成り立っていたものなのか……。が、あの頃は、仕事をもつ女性はほんの少数の時代だった。いつしか純子は専業主婦になりたいと思うようになっていた。子リス幼稚園の将来を考えるほど、純子は大人ではなかった。

 

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