小学校高学年では友だちに恵まれ、思い出の多い2年間を過ごすことができた。とうちゃんかあちゃんへの気持ちは相変わらずだった。どうして僕はここに生まれてきてしまったのだろう?でもこのまま中学でも友だちと楽しく過ごせたらいいと思っていた。どうせ、高校進学はせず、働くことになるだろう。

 

 ところが、中学校に入ると、部活動というものがあった。仲間だと思っていたみんながサッカーやバスケット、野球などの部活に入り、放課後にあの頃のように遊ぶことはなくなった。三中では必ず何かの部に入って活動することが決まりだった。

 

 僕は仕方なく、「オセロ部」に入った。スポーツも苦手、楽器もできない、天文や生物にも文学にも興味ない人のために居場所を作ったような部活だった。囲碁将棋なんてやったことはないけれど、オセロならばさわったことはあった。ルールも単純で、週に1度、月曜日だけ集まった。先生も優しかった。僕には力強い味方がいた。タモちゃんだ。僕らはいつも2人で対戦していた。

 

 そんな僕に転機が訪れた。それは入学して間もない5月末の運動会のことだった。三中では組体操と全員リレーが必須で、その他は「短距離走」「長距離走」「障害物走」の中から好きな種目を1つ選んで出る。僕はどうせ大した結果を残せないし、何でもよかった。

 

 人気のないのは「長距離走」で、僕はそれに出ることになった。

「短距離ならあっという間に終わるけど、長距離って当たり前だけど長いじゃん!疲れるし、速けりゃいいけど、ずっと苦しそうな顔を女子に見られてるのっていやだよな」

みんながそんなことを言っていた。女子の目を気にし始める年頃だ。

 

 当日、僕はなんと1年生の中で1番でゴールテープを切った。ちっとも苦しくはなかった。自分自身でも信じられなかった。みんなが手を抜いているのかと思うほど僕はみんなを置き去りにしていた。

 

 そして、それを見てくれていたのが陸上部の指導者、池田先生だった。顧問の先生とは別に、池田先生は60歳で教師を退職し、今は三中の陸上部だけを指導しに来ている先生だ。その昔、ここで体育を教えていたらしい。先生は、環境も整っていて、自然豊かで、生徒たちも穏やかなこの三中に戻りたかったらしい。世の中では校内暴力なんて言葉も耳にするが、ここは無縁な中学だった。

 

 あとで知ったことだが、先生の指導には定評があって

「東京都の中学陸上界に池田あり」

と言われていたそうだ。

 

 「陸上をやってみないか」

と先生に言われ、僕は何もわからないままに、陸上部に入った。運動会で1等になったことでとうちゃんもかあちゃんもびっくりしていた。この時ばかりは反対もなかった。

 

 長い距離を走ること、僕は苦ではなかった。先生は、基本から丁寧に熱心に教えてくれた。手の振り、もも上げ、足運び、頭の悪い僕にもわかりやすかった。先生の指導で三中は、それまでも陸上競技のいろいろな種目で関東大会や全国大会に出ていた。僕自身も東京都の大会でも上位の成績を残せるまでになった。

 

 ユニフォームの問題は先生が解決してくれた。どこでどうしたのか、僕は聞くこともなく、ありがたく使わせてもらった。そっか、僕のウチの事情、先生にもバレているんだな。どうせ、有名な僕んちの家計事情だ。結果を出すのみだ。

 

 そこには「東京都」という文字が入っていた。関東や全国の大会に出るには、都道府県名が記載されていることが必要なんだって。自慢の勲章。ますます走ることが好きになった。

 

 相変わらず、周りから言われることは同じだった。

 「自転車を買ってもらえなくて、いっつも走ってみんなの後を追いかけていたから、鍛えられた」

そう言うのは大人たちだった。仲間は

「ツヨシ、すげえなあ」

と言ってくれた。

 

 成績だけを評価してくれよ。どうしてそこに貧乏エピソードがついてまわるんだよ。僕は大人たちのそれだけが悔しかった。

 

   続く