私が幼稚園や小学校低学年の頃のことだから、かれこれ60年ほど前のことになる。そのおばあちゃん?は、たまに我が家にやってきた。その人は言葉をしゃべることができなかった。我が家とどんな関係の人かも知らなかった。
「おし」と言えば今じゃあ「推し」だけれど、こちらの「おし」は差別用語だ。言葉がしゃべれない人のことを「おし」耳が聞こえない人のことを「つんぼ」目が見えない人のことを「めくら」とは、ひどいものだ。でもその頃は子どもに説明するのに安易な言葉であったこと、そういう表現しかなかったのか、父は私たちにはそう言っていた。
「おしのおばさん」
と。
私はとにかくこの人が怖かった。
「あーあー」
だか
「うーうー」
とか
「おーおー」
が混じったようななんとも平仮名で表せない言葉にならない音?を発し、身振り手振りで意志を伝える。私のことを指さして、「こっちに来なさい」と手でおいでおいでをする。そして、頭をなでてくれるのだが、それが嫌で嫌で、身を固くしていた。
一方の弟は、いたずら坊主だったためか、よく怒られていた。何かしでかした後、弟を目の前に座らせ、眉間にしわを寄せて自分の手の甲を片方の手でピシャリと叩く。さすがに弟の頭を叩くことはない。
そのおばさんは、大変に几帳面な方で、しばしば泊っていくときがあったが、自分の着物(衣類)をきちんと畳んで、風呂敷に包み、枕元において休んでいた。昼間はお裁縫をしていた。
紙に文字を書いている姿も見たことがなかった。いつの間にかおばさんは来なくなった。
私が結婚してから、両親とそのおばさんの話題になることがあった。それまでは、なんとなくそのおばさんの話題に触れてはいけないような感じがあった。
「私が小さい頃、言葉がしゃべれないおばあちゃんが来てたよね?あの人は誰だったの?」
そこから始まる。父の父(私の祖父)の妹、父にとっての叔母さんだったと聞いた。私にとっての大叔母さんと初めて知った。
大叔母さんは、生まれつき耳が聞こえず、言葉の学習ができなかったと。明治の時代に生まれ、耳が聞こえないと分かったのは何歳の時だったのか、今のように医療も発達していなかったろうし、親も忙しく、「おとなしい子だ」としてある年齢までそのままにしてしまったらしい。学校も行っていなかったかもしれない、と。どんな生活をしていたのだろう?
そうして大叔母さんは当時にしては遅い、40を過ぎて結婚をした。状況を聞くに、お手伝いさん同然の扱い、女手の1人として迎えられたようだ。大叔母さんは辛い思いをしたことだろう。時々実家に帰ってきたらしい。が、祖父(父の父であり、その大叔母さんの兄)は、長居を許さなかった。
そんな時、大叔母さんは穏やかな父(甥っ子)のところにやってくる。母もかいがいしくお世話をするたちだったので、ご飯もお茶もお布団の用意もした。私たち子どももいて、にぎやかだったから大叔母さんは、喜んでいたそうだ。
今聞けば胸の痛くなる話だが、その頃は大叔母さんが帰ると私はホッとした。あの時はごめんなさい……。
ある時、祖父が父に言ったそうだ。
「これ以上妹に優しくしてくれるな。来ても必ずすぐに帰してくれ」
と。
私にとってのおじいちゃんおばあちゃんは、優しかった。その祖父が心を鬼にして放った言葉だったと思う。嫁ぎ先からも
「早く返してくれ」
とでも言われていたのではないか?そんな時代だったのだ。
その後の大叔母さんの話は父から聞くこともなかった。どんな人生だったのだろう?悔しく辛い思いだけの一生だったのではないか?ほんの少しでも楽しい思い出があって欲しい。75年の人生だった。
身体の不自由さがその人の人生をただただ辛いだけのものにしてしまった時代、女の人が女中のように扱われていた時代、それらを大叔母さんを通して少しだけ知った私。
今、まだまだ少ないとはいえ、大企業のトップにも女性が選ばれる時代となった。医療の発達のおかげで生後すぐの健診で様々なことがわかり、不自由なところが見つかれば、すぐにケアを受けられる。すべてとは言えないが、そうしてその方が
「これは自分の個性」
と堂々と言える世の中になりつつある。もちろん、みなさん、努力もし、大変なことも乗り越えて、のことだと思うが、努力する場も与えられなかった時代は過ぎた。
こんなに大きな変化を私は見てきた。日々の暮らしに大きな違いはないが、昔を思い起こすとその変化は大きい。
これからの60年、どんな変化があるのだろう?私は目にすることはできないし、想像すらできない。変化のスピードはさらに加速するに違いない。
人生は長くて短い、そして短くて長い。