40代の時、それを初めて知った。葬儀での故人様との最後のお別れで、お顔を実際に拝見すること……。
もちろん小さい頃には自分の祖父母とのお別れはあった。父も母も兄弟姉妹が多く、親戚はたくさん。特に小さい頃なんて
「あの人は誰だ?」
って人が大勢いたけれど、いちいち両親に聞くでもなく、おとなしく大人の行動をまねていた。
棺の中に白いお顔で横たわるおじいちゃんおばあちゃんとのお別れは、親族だけだった。それで十分なほどの人数だったし。
今から20年ほど前、ママ友が突然の事故で命を落とした。年下の彼女は、何かと私を頼ってくれたりした。一方でフットワークの良い彼女は、その明るさと優しさも相まって、私のお願いにも応えてくれた。そんな間柄であった。
ある時、道端でばったり会い、
「何だか久しぶりだね」
で立ち話が始まった。子どもらが小学校までは色々と顔を合わせる機会も多かったが、中学生になるとそれはめっきり減った。ランチのお約束でもしない限り、会うこともない。子どもがある程度大きくなると、お互いにパートを始めたりして。
最後に彼女が言った。
「beachan、私、疲れちゃったよ。下の子どもは言うことを聞かないし、上はなんだか反抗期みたいでかわいくないし。子育てって大変だよね。私、母親より絶対先に死ぬ気がする」
「やだーそんなこと言わないでよ」
と返した私だったが、その場で彼女は深い話をするつもりはなかったようで
「今度ゆっくり聞いてね」
と言われて別れた。いつも笑顔の彼女からのそんな言葉に私の心はざわついていた。
その1週間後に彼女は交通事故であっけなく逝ってしまった。
地域差もあるだろうが、私の住んでいる辺りでは、「友人・知人」関係だとみなさん大体お通夜だけ参列する。どうしても都合がつかなかった、という方が翌日の告別式に出る。「どちらか」ってことだ。でも私は彼女との最後の会話が気になり、仲良くしていただいたお礼も込めて、両方に出席した。
そして、そこで初めて知った。葬儀屋さんがマイクを通じて
「故人様との最後のお別れです。こちらでお花をお渡ししますので、どうぞたくさんお花を入れてあげてください」
と棺へお花を入れるのを促している。ということは彼女のお顔を拝見することになる。
「お別れ」って言ってもそれは一方的なもののような気がして、私は違和感があった。ご家族が望んだことなのだろうか?なるべく多くの人にお別れに来てもらえたら嬉しい。そこは理解できる。さらに来てくださった方にはお顔を見て欲しいと。それについては私は受け入れがたい。
はっきり言ってそれは、お別れと言うより、生きている人間が、死顔を見るってこと。故人は、何日か前に突然に、勝手にみんなと別れた。う~ん、どちらも一方通行、それもお別れって言えばお別れ?
お互いに
「じゃあね、またね」
と言えるなら、確かにそれはお別れじゃないか……。
彼女のあの笑顔はもうない。言葉も発しない。私は、その行為を拒んで一人はじっこで目をつぶっていた。私の心には彼女の笑顔がある。それでいい。
歳と共に、親戚以外、つまりは友人、知人との別れの回数も増えてきた。そして、その「お別れ」は、決まって行われている。そして、私はあんなに頑なに拒んでいた故人とのお別れも経験するようになった。でもたまに生前のその方と別人のようなお顔かたちを目にすることもあったりする。
「お顔、見たくなかったなあ。心の中だけにしておけばよかった」
と後悔することもある。特に長く患っていらした方とか。
先日、新聞の投稿欄で目にした。
「コロナ禍で簡略化された葬儀がそのままで、寂しい。最後にお顔を拝見してしっかりとお別れと感謝の気持ちを伝えたかった」
ご高齢の男性のものだ。
私は夫に伝えている。
「私の顔が生前のものとあまりにも違うようだったら、誰にも見られたくない」
と。あ、夫と私、どちらが先かわからないけどね。
何十年経ってもモヤモヤする「最後のお別れ」だ。本当のお別れだからこそ、人それぞれの思いがあるものなのかもしれない。