比較的近いところに実家の墓があるので、私は時間を作っては父が眠る墓を訪れる。と言ってもひと月に1度行かれるかどうかの頻度だが。その墓には父だけが入っている。
「独りでさみしくないかな?」
と思ったりもするが、だからと言って誰かを呼びつける父でもない。あ、父に限ったことではないか。
常にきれいなお花が供えてあるお墓がある。近づいてよくみると、それは造花だった。
「どおりできれいなわけだわ」
私はお花の手入れが上手ではないが、かと言ってお墓に造花は違うのではないかと思う。実家からは徒歩圏内なので、母が庭の花や買った花を供えてくる。
冬場はそこそこ保つけれど、4月あたりからは暖かくなり、すぐにしおれてくる。暑さの厳しいこの時期はあっという間だ。きれいな生花は枯れると見るも無残で、特にお墓のものはそのお宅の生活状況を物語っているようでもある。雑多なお部屋を見せているようだ。
そうして私は、お花持参というより、線香だけを持参して、お掃除に参る感じになる。自分がお花を供えてくるとなると近々その始末に行かれるかどうかも計算に入れなければならない。
弟も妹も海外に住み、その役は90にもなる母と私しかできない。母だっていくら近いとはいえ、すっかり腰がまがり、シルバーカー無しでは歩くこともできない。
造花か生花か、考えた時もあったが、父のことを思った。父は華やかさを求める人ではなかった。きちんとしている、整っている、が好きな人だった。
「花がなくても雑草の始末だけはしておくれ」
そんな風に言われている気がした。
もちろんお花片手にお墓参りもするけれど、大体は
「おとうちゃん、来たよ~。beachanだよ~」
と言って、草むしりをする。風で飛んできたであろうゴミを拾う。敷き詰められた小石のすき間から、少しでも緑が見えたら、それをつまむ。
常に完璧に美しく手をかけられるならば、それはベストだ。けど、なかなかそうは上手くいかない。いろいろな考えはあると思うが、お墓に眠っている人のことを考え、その人が望むであろう姿を整えるのが良いと思う私だ。そして、何より、たくさんその場に行って手を合わせることが最高だと思う。
こういうふうに自分の行動の正当化をすることが得意な私だか、それは、言い訳だな。