昭和41年4月、私は小学校に入学した。担任は頭の禿げたおじいちゃん先生だった。と言っても教職員の定年を考えれば「おじさん」だったと思うが。自分が小さい頃って、大人の年齢がさっぱりわからない。先生といえばなおさらだ。
その先生の授業、というか指導?には衝撃を受けた。
「小学校ってところは、こんななの?」
とにかく毎日のようにテストがある。それは、学期ごとに国語、算数、理科、社会の業者作成?のカラフルなテスト各10枚ずつに加え、先生オリジナルの「漢字」と「計算」のわら半紙テストが40枚ずつ。学期ごとに120枚のテストだ。もう一度言います。
「学期ごとです」
もちろん、授業もあったはずだか、私にはテストの記憶が強すぎて。
黒板に次の日のテストの範囲が知らされる。ま、それをしっかりやってきなさい、ということだ。私は第一子で、家が商売をやっていたという環境もあり両親どちらかが必ず家に居たから、つきっきりで勉強をさせられた。
翌日は先生の
「はい、テスト~」
という声に合わせて、2人用の木の机の真ん中にどちらかが椅子の背にかけてあるランドセルを置く。カンニング防止だ。
そうして多くのテストをするのだから、先生は休み時間にいつも赤ペンを握り、丸つけをしていた。ちょっと見ていると面白いほど、リズムに乗って口まで何やら動いている。給食も早々に食べ、その作業。
丸つけが間に合わない時、先生は私たちの国語の授業中「丸読み」をさせて、採点の時間を作り出す。教室の端っこに座っている子から順番に国語の教科書の文章を丸(句読点)まで読んで、次の子がそれに続く‥‥‥ってもの。大きな声で読まないと
「聞こえませ~ん」
と誰かが注意したりして。今思うと、それを授業というのか?
そして、学期の終わりに「通信簿」と一緒に1枚のわら半紙が挟まれて配られる。そこには各教科、漢字、計算テストの平均点がずらりと並び、総合順位が付けられている。もちろん匿名だけれど、自分のものには順位のところに、赤丸がつけられていた。
そうなったら、
「学校のお勉強を大事にしなさい」
と言っていた両親にも熱が入るのは当然だ。自分たちが環境や経済的理由で学ぶことができなかったその思いを子どもに託したのだ。
常に上位にいる子は、大体決まった子たち。それでも私みたいな子にも両親は必死だったし、私も小さい頃は親に従って行動する子どもだったから、頑張った方だと思う。
「学校ってこういうところなんだ」
と当初思った私だったが、担任が代わり、3~4年生の頃には
「あれっ?違う」
と気づき始め、その頃は低学年の貯金でなんとか維持した成績もそうは上手くいかなくなった。高学年になった頃はすっかり家で勉強しなくなった。最低限の宿題だけだ。両親もそれほど関わらなくなった。
疲れるほど勉強したわけではないと思うが、そうやってやらされた勉強に何の意味があったのか?確かにそれなりの点数はついたかもしれない。でも……親に対して反発心が芽生えていた。
弟や妹は小さい頃、
「勉強しなさい」
とも言われず、弟なんて中学生の頃、自ら勉強することの大切さを知ったようで、
「姉ちゃんに比べて‥‥‥」
と言われていたはずなのに、ぐんぐん成績が伸び、私はあっという間に追い抜かされた。
そうして私は、高校生の頃、子どものしつけ、教育ってなんだろう?と思い始めた。子どもを育てること、親が学ぶこと、に関心が向いた。大学でそんなことに取り組んでみたいと思うようになった。
今では、その両親のエネルギーに感謝している。それは相当な重労働だ。きっと、力を使い果たし、弟と妹まで手が回らなかったんだろうな。
最近はその頃の話を笑い話として語り合う。弟や妹は私の話に驚き、その逆もたくさん。
幸せなことだ。