子どもの頃、1番働いたのは、年末の餅つきだ。「お手伝い」レベルじゃなく、私の中では「働く」イメージ。お米屋って年末は特に忙しい。

 

 小学校2学期の終業式から戻る私の足は重い。帰宅の道路からは既に母が大量の米を研いでいるのが見える。大きな樽とオリジナル用具を使って長いビニールのエプロンを付けて、大きく腰を振り、上体を左右に揺らしながら。いつも車庫として使われている場所が餅つき場に変身している。その日ばかりは「通信簿」なんてスルーされる。

 

 世の中はクリスマスと冬休みという楽しい時間、我が家にそんなものはない。せいろで蒸したもち米をつくのはもちろん機械だけれど、その量はピーク時で30俵(1俵は60キロ)だったと、のちに父に聞いた。親戚のおじさんおばさん、いとこの兄さん姉さんも来てくれた。

 

 私も弟もそれなりの年齢となり、いつの頃からか、役割分担ができた。機械から出てくる直径3センチくらいの餅は、ニョロニョロとへびのようにとぐろを巻いて臼にたまっていく。弟は出てくる熱々の餅を親指と人差し指でつまんで勢いよく腕を振り下ろして断ち、大きなベニヤ板の台の上に乗せる。それを決まった重さに切り分けていく。200グラムとか400グラムのお供えから、2キロほどののし餅まで、目の前の壁に表が貼ってある。全体を見ている父から

「のし!」とか

「3号(お供えの大きさ)!」

「5号!」

と合図が出る。

 

 弟のそれは、私に言わせれば職人のようだった。小学生だけど、数年のうちにやり方が身に付いた。だって、お餅は熱々だから、スパッと切れなくて親指や人差し指にくっついたら、やけどをしそうだ。かと言ってお粉をつけすぎると

「粉、つけすぎ!」

と父の大声が飛ぶ。父だって黙って立っていたわけじゃないのに、一体どこに目がついているのか不思議な気がした。

 

 そして、分銅を変えつつ、その重さに切り分けるのって難しいよ。のし餅ならば、1度に2キロだからどんどんはけていく。が、200グラムなんてさっさと切り分けていかないと、臼にどんどん餅が溜まっていく。しかも何度も足したり引いたりしていてはかりに乗せていては時間もかかる。そして、そんなこまぎれの餅はお供えとしてまとめることもできず、処分されることになる。弟は1回でその重さをクリアーできるほどになった。

 

 私はその隣で軍手を付け、四角い枠に餅を伸したり、お供えを作ったりした。が、それも単純作業で、飽きてくる。時々弟に

「やらせて」

と言って、仕事内容を交代してみたけれど、できたもんじゃあなかった。母の

「そろそろお茶にしますよ~」

とか

「お昼どうですか~」

の声が待ち遠しかった。

 

 お供え餅ってどのご家庭でも神聖な場所にお供えするよね。まさか、小学生が作っていたとは、誰も思っていなかったことだろう。でも私も自分で言うのもナンだけど、上手だった。逆さにしてみても分け目?継ぎ目?も見えず、綺麗だった。会社経営とか商売をなさっているお客様からは、特大のお供え餅が注文される。さすがに30センチのお供えは父が作っていた。その目は真剣だった。

 

 これらの作業は3~4日続く。夜中の12:00まで裸電球がこうこうとついている。そしてその後の掃除も大変だった。家じゅうが白い粉まみれになっていた。みんな気を付けて家に入る時は、服をはたいたりしたのに。

 

 嫌だった冬休みも今となっては懐かしい。

「年末年始は海外に行きたい。せめて旅行したいわ」

なんて夫に言ったこともなく、ある意味根性が鍛えられたのかもしれない。主婦としての年末の忙しさも何とか乗り越えてきた。けど、その根性、最近はなくなりつつある‥‥‥。一度で良いから、年末年始、何にもしないでゆっくりと温泉につかり、おいしいものを食べたいなぁ。