実はこのブログを始める前に父は既に他界していた。小さい頃の父とのやり取りならば、思い出として綴って不自然はない。が、晩年のこととなると、それほど遠い昔のことでもないせいか、私はせめてこの場ではまだ父が生きていていいのでは、と思いながら続けていた。いつかどこかで、と機会をうかがっているうちに時間ばかりが過ぎてしまった。

 

 書いていて、心の中に矛盾が生じてきて、ここで語っておこう、と決心した。

 

 そろそろ3年になるんだ、あれから……。

 

 弟と妹と私の3人が、小さな部屋で丸椅子に座り、その医師の話を聞いていた。母は、

「お父ちゃんが家に帰ってくるまでここで留守番をしてる」

と病院には行かず、家に居た。

 

 「コロナではありませんが、あえて死因をつけるとすれば、老人性の肺炎ですね。左肺に影がありました」

弟がいくつか質問していた。

「だとしたらいつごろから罹っていたのでしょうか?」

「昨日入院した後、どんな治療が行われたのでしょうか?」

 

 私にとっては今となってはどうでもよかった。父はもうこの世にいないのだ。それらを知ったところで、父はもう生きて帰ることはない。ただ、弟には弟なりの思いがあった、そういうことだ。足腰が弱っていたとはいえ、先日も弟は父と電話をし、元気な声で会話をしたらしい。昨日入院したからひと安心、しばらく治療をして、また家に戻れる、またいつもの姿を見られる‥‥‥。そう思っていたからこそ、弟は納得がいかないのだ。

 

 妹は下を向いたままだ。

「お父ちゃんもわかっていたんだよ。これでちゃっちゃん(妹)が家に帰ってしまったら、今度こそ会えなくなるって‥‥‥」(妹は海外に住んでいる)

私の言葉に彼女は涙を流しながら、うなずいていた。何かあってもすぐに駆け付けられる距離ではない。ましてやその頃は、コロナのため入国には2週間の隔離期間を強いられていた。

 

 前日の入院には妹が付き添った。その際、看護師さんに

「お見舞いはできません」

とはっきり言われたそうだ。

 

 看護師さんの言葉通り、翌朝電話があって慌てて駆け付けた私たちが許可を得て病室に入った時、父の顔には既に白い布が被せられていた。よくテレビで見る、家族の涙声や叫び声の中、そばに置かれている機械の電子音がいきなり変化するあの場面。医師が

「御臨終です」

と言って深々と頭を下げるシーン。そんなものはなかった。

 

 私は、骨と皮だけになった父の手をさすり、

「お父ちゃん、お疲れ様でした。ありがとう」

とだけ言った。

 

 数年前から、

「大げさな葬儀はなしだよ。今流行っているよね、家族葬。ああいうのが希望だな。ただ、その後、もしかしたらお別れしたかった、なんていう人がひっきりなしにウチに来たりしたら、お母ちゃんが大変か……」

なんて言い始めた父。当時まだまだ元気だったこともあり、

「そんなの遺された私たちがすることだよ。お父ちゃんは商売もやっていたし、いろんなお役もやっていたから、お別れしたいと言ってくれる人が大勢いると思う。う~んと盛大にやってあげる」

なんて力強く言っていた私。遺された母の心配をするところも父らしいが。

 

 コロナのおかげなんて言ったらおかしいけど

「お父ちゃん、希望通りの『家族と近しい親戚だけの小さなお葬式』だったよ。こじんまりと自宅でやりましたよ。だから、自宅からのご出棺でございましたよ。当然それ以降もどなたも自宅にみえませんよ。『コロナが怖いから、失礼しますね』と、みなさんおっしゃってますよ。心配も無用だったよ」

 

 長く患っていた方の場合、周りの人々は長くお世話できたことや十分にお別れの時間をもらえたことに感謝していると言う。突然亡くなられた場合は、本人が苦しまなくて良かったと言う。

 

 人生に「たら、れば」はない。「こうだったら、ああなっていたかも」「ああしていたらうまくいったのに」は存在しない。みんな、過ぎたことに、それぞれが自分にとって良いように解釈していくのだ。

 

 特に大切な家族との別れにおいて後悔がない人はいないと思うが、みんななんとか納得できる考えを見つけて、時間をかけてゆっくりゆっくりと、ハードルを越えていく。